北史卷八十二 列傳第七十儒林下 何妥

蘇威と激しく争った国子祭酒

  • 字は棲風、西城の人。父の細脚胡は蜀に商いに入り郫県に家を構え梁の武陵王蕭紀に仕え財貨を扱い巨富を得て西州大賈と号された。妥は少くして機警で、八歳で国子学に遊び助教顧良にからかわれても即座に切り返し衆を驚かせた。十七歳で伎巧をもって湘東王に仕え、聡明を認められ誦書左右となった。蘭陵の蕭翽と並び「白楊の何妥、青楊の蕭翽」と称された。
  • 江陵平定後、北周に仕え太学博士となった。宣帝が五皇后を立てようとした際、儒者の辛彦之は反対を答えたが、妥は「帝嚳に四妃、舜に二妃、皇后数に定まった規定はない」と反論し、これにより襄城県男に封ぜられた。隋文帝受禅後、国子博士・通直散騎常侍を加えられ公爵に進んだ。
  • 性格は激しく口才があり人物批評を好んだ。納言蘇威が「先人は孝経一巻を読めば立身経国に足ると誡めた」と述べたのに対し、妥は「蘇威の学問は孝経に限らない、父の言が事実なら威は不孝、事実でなければ帝を欺いた不誠、いずれにせよ君に事えられぬ」と反論し、さらに孔子の「詩を読まねば言えず、礼を読まねば立てず」を引いて蘇綽の教えに背く蘇威の言を批判し、蘇威を信任すべきでないと奏した。天文律暦の職も不称職として八事を諫言した。
  • 八事の要旨:一、選挙は衆議によるべきで一人の推挙を信じてはならない。二、朋党(阿党)を防ぐべき。三、才を量って各官に配し一人に数職を兼ねさせるべきでない(易の「鼎折足、覆公餗」を引用)。四、旧制を軽々に改作すべきでない(範威の刻漏が十年成らず、趙翊の尺秤が七年かかるなど失敗例を列挙)、以後は言と実が異なれば重罰を科すべき。
  • 蘇威の武功隠棲の旧事に触れ「傅岩・渭水の気概を自負している」と皮肉ったため蘇威は激怒した。二年、蘇威が学識の考課を行った際に妥がまた批判し「何妥がいなくとも博士に困らぬ」「蘇威がいなくとも執事に困らぬ」と応酬し不和になった。
  • 帝が妥に鐘律の考定を命じた際、上表で礼楽の意義を詳論した。楽には奸声と正声の別があり正声は人を順気に感応させると述べ、孔子の「鄭声を放ち佞人を遠ざける」を引き、魏文侯と子夏の問答(古楽と鄭衛の音の違い)を紹介し、黄帝の《咸池》から周の《大武》、漢の叔孫通の宗廟楽、歴代の舞楽の沿革、南朝梁の楽事が侯景の乱で散逸した経緯までを述べ、自らも音律に通じるとして三調四舞の伝授を申し出た。
  • 上表を受け太常に取り計らわせ、清・平・瑟の三調および鞸・鐸・巾・払の四舞を作らせた。太常の旧伝の雅楽は大呂のみで黄鐘を廃していたため、妥は黄鐘の使用を上奏し詔で許された。子の何蔚が罪を得た際は帝が哀れんで減刑した。開皇六年、龍州刺史として出て《刺史箴》を州門に掲げ、三年で病を理由に帰任し学事に戻った。
  • 蘇夔が太常で鐘律を議し朝士の多くが従う中、妥は独り異を唱えて夔の短を指摘し続けた。帝が議を下すと群臣は妥を排斥する側に回り、妥は改めて封事を上奏し時政の得失と朋党を指弾、蘇威・吏部尚書盧愷・侍郎薛道衡らが連座して罪を得た。伊州刺史を除されたが赴任せず、国子祭酒として官で卒し諡は粛。
  • 《周易講疏》三巻、《孝経義疏》二巻、《荘子義疏》四巻を撰し、沈重らと《三十六科鬼神感応等大義》九巻、《封禅書》一巻、《楽要》一巻、文集十巻を撰し世に行われた。