古学と文字学に通じた官吏
- 字は季明、河間鄚の人。孝行で世に知られた。曾祖の嶷は北魏太武帝の時に軍功で容城県男を賜り燕郡守となり、祖の鎮・父の瓊が爵を襲った。景熙は読書を好み強記黙識だったが応対の才には欠けた。
- 従祖の広(太武帝時の尚書郎で古学に長じた)は吏部尚書崔宏に字義を、司徒崔浩に楷篆を学んだ家学を持ち、季明もこれを伝えたが許慎の説とはやや異なった。玄象・術数にも通じたが生業を顧みず落魄し、貧寒でも節操を変えなかった。范陽の盧道源と莫逆の交わりを結び、永安中に道源の勧めで威烈将軍として出仕した。
- 孝武帝の西遷後は伊洛に寓居。侯景が河外を平定すると軍に召され黎陽郡守に遷ったが、懸瓠まで従いその不確かさを見抜いて去り潁川に寓した。王思政の招きで潁川に留まり、間もなく周文帝の招請で関中に入り、東閣で古今の文字を正定する任を得た。
- 大統末、著作佐郎を拝したが、同輩がみな車服華美な高官に至る中、独り貧素に安んじて恥じることなく職務に励んだ。ただし頑固な性格で時勢に合わず、史官として十年も昇進しなかった。武成末、外史下大夫に遷った。
- 保定三年(563年)、宮室の大規模造営中に春夏の大旱に見舞われ百官に得失を述べる詔が出され、景熙は封事を上奏した。第一の上書では成湯が旱に六事で自省した故事、《春秋》荘公三十一年の三度の築台と冬の不雨、僖公二十一年の南門造営と夏の大旱、漢恵帝が長安城を築いた際の大旱、漢武帝が昆明池を穿った際の大旱を引き、土木の興役が天譴を招くと論じ、《詩》「人亦労止、迄可小康」を引いて人民を休ませ天譴に応えるべきと説いた。
- 豪富が奢侈を競う風潮に対しても上書し、寛大慈愛の徳を論じ、漢文帝が上書の袋を集めて帷帳に作り十家の産を惜しんで露台を造らせなかった質素な徳を範として、浮華を改め流競を抑えるべきと説いた。
- また為政の要は選挙にあるとし、賢愚を弁えず私愛によらぬ人材登用を説き、帝は覧て嘉した。外史の官署が定まらず度々移転していたことも上奏し、修営が実現した。天和二年、車騎大将軍・儀同三司に進み、後に病で卒した。