北史卷八十二 列傳第七十儒林下 樂遜

北周の露門博士

  • 字は遵賢、河東猗氏の人。幼くして成人のような操行を持ち、徐遵明に趙魏の間で師事し《孝経》《喪服》《論語》《詩》《書》《礼》《易》《左氏春秋》の大義を受けた。山東の戦乱で学者が四散する中でも道を求める志は変わらなかった。
  • 大統七年(541年)子都督となり、九年太尉李弼に招かれ諸子を教授した。周文帝が賢良を選抜する際、相府戸曹柳敏・行台郎中盧光・河東郡丞辛粲らが牧民の才があると推薦したが李弼は手放さなかった。魏廃帝二年(553年)周文帝が招き諸子を六年間教授し《孝経》《論語》《毛詩》《服虔注春秋左氏伝》を講じた。
  • 北周閔帝の践阼後、行政の才により秋官府上士から小師氏下大夫に転じ、譙王宇文儉以下が束脩の礼で弟子となった。衛公宇文直が蒲州鎮守の際は主簿を務めた。
  • 武成元年(559年)長雨により百官に封事を求める詔があり、遜は時宜十四条を上奏、うち五条(崇教方・省造作・明選挙・重戦伐・禁奢侈)が特に要を得ていた。保定二年、訓導の功で遂伯中大夫に遷り、五年には魯公宇文贇・畢公宇文賢らが束脩の礼で受業した。
  • 天和元年岐州刺史陳公純が賢良に推挙、五年には老齢を理由に致仕を上表したが許されず、粟帛・銭などを賜り湖州刺史・安邑県子に任じられた。蛮族の風習が未熟な地で生徒を励まし課試を課して数年で州境を教化し、蛮俗の父母異居の悪習も多く改めさせた。
  • 任期満了で還朝し皇太子諫議を拝し露門で皇子を教授した。大象初め崇業郡公に進み露門博士、二年には開府儀同大将軍に進み汾陰郡守として出たが老病を理由に固辞し東揚州刺史に改められ、安車・衣服・奴婢および本郡田十頃を賜り儒者の栄誉とされた。隋開皇元年(581年)年八十二で家で卒し、本官に蒲・陝二州刺史を追贈された。
  • 性格は柔和謹厳で交遊少なく忠信を立身の本とし、衆議でも先んじて発言せず学者に称された。著書に《孝経》《論語》《毛詩》《左氏春秋序論》十余篇、また《春秋序義》があり賈逵・服虔の説に通じ杜預の違を発した。