北史卷八十二 列傳第七十儒林下 熊安生

北周武帝を感服させた三礼の大家

  • 字は植之、長楽阜城の人。少くして好学励精、陳達に《三伝》、房虯に《周礼》、徐遵明に師事し、李宝鼎(李鉉)にも《礼》を受け《五経》に博通した。特に《三礼》を専門として教授し、遠方から千余人の弟子が集まった。図緯を討論し異聞を捃摭して先儒の未発を明らかにした。
  • 斉の河清中、陽休之の推挙で国子博士となった。西朝(北周)では《周礼》が行われ公卿以下が学んだが、数十条の疑滞は解けなかった。天和三年(568年)、北周と北斉の通好で兵部の尹公正が使者として北斉に赴き《周礼》を論じたが北斉人は答えられず、安生が賓館に招かれ問答した。安生は「礼義は深遠、順序立てて説明したい」と述べ全て解明し、公正は感服して帰国し武帝に報告、武帝は大いに敬重した。
  • 安生が鄴に入る際、あらかじめ門を掃除させ「周帝は道を重んじ儒を尊ぶ、必ず私を訪ねるだろう」と述べたところ、案の定、武帝自ら訪れ拝礼を制して手を執り同座させ「朕はいまだ戦を止められず愧じている」と語りかけた。安生は黄帝の阪泉の戦いを引いて答えた。武帝が府庫・三台の財物を民に散じる件を尋ねると、安生は武王が鹿台の財・鉅橋の粟を散じた故事を引いて称賛し、武帝が武王との比較を問うと「武王の伐紂は首を白旗に懸けたが、陛下は斉を平らげ兵刃を血に染めなかった、聖略はより優れている」と答え、武帝は大喜びして帛三百匹・米三百石・宅一区・象笏・九鐶金帯などを賜った。安車駟馬を給し随駕を許す詔も出された。京師では大乗仏寺で五礼の議に参与し、宣政元年(578年)露門博士・下大夫を拝した。時に年八十余、まもなく致仕し家で卒した。
  • 門人に馬栄伯・張黒奴・竇士栄・孔籠・劉焯・劉炫らがおり、《周礼義疏》二十巻、《礼記義疏》三十巻、《孝経義》一巻を撰し世に行われた。同郡の宗道暉・張暉・紀顕敬・徐遵明らと祖師と仰がれた。
  • 逸話として、宗道暉は高い翅帽と大屐を好み、州将に謁見する際もこの姿で仰々しく振る舞い「学士は三公に比す」と自称したが、斉の任城王高湝に鞭打たれても屐を履いて悠然と去った。冀州の人々は「顕公の鐘、宋公の鼓、宗道暉の屐、李洛姫の腹」を「四大」と呼んだ(顕公は僧、宋公は安徳太守、洛姫は女性)。
  • 安生が山東で講義に赴くたびに郡県が傾くほど人が集まった。ある者が「某村の古塚は晋の河南将軍熊光の墓、七十二世前の祖先」と偽ったため掘り起こそうとして訴訟が長引き、冀州長史鄭大讙が「七十二世前は伏羲皇の時代、河南将軍という官職は晋にはない」と裁定した。安生は一族を率いて墓に向かい号泣したという。また徐之才(諱は雄)・和士開(諱は安)に会う際、避諱のため「觸觸生」と自称し人々に笑われた。