苦難の末に北周の博士となった学者
- 字は文深、河東猗氏の人。継母によく仕え、弱冠で好学、河西に師を求め《五経》を昼夜学んだ。魏の永安年間に従軍し功により中散大夫に累進した。
- 孝武帝の西遷に際し樊氏・王氏の両姓が義兵を挙げて誅殺され、深の父保周・叔父歓周も殺害された。深自身も難を逃れる途中崖から落ち足を傷つけ二昼夜絶食したが、得た餅一つを老いた継母を思い自ら食べず、夜中に匍匐して母を捜し出し届けた。姓名を変え汾晋の間で天文・算暦を学んだが密告され河東に囚われたところ、東魏の将軍韓軌の長史張曜がその儒学を重んじ家に匿い逃亡を助けた。
- 北周文帝が河東を平定すると保周に南郢州刺史、歓周に儀同三司を追贈し、深は父の遺骸を帰葬し自ら土を運んで墳を築いた。
- 于謹に府参軍事として招かれ子孫の教授を任され、周文帝が東館に学を置き諸将の子弟を教える際に博士とされた。多く漢魏諸家の説を引いて解説したため後生は理解できず「樊生の講義は門戸が多くて分からない」と譏ったが、儒者はその博識を高く評価した。
- 老いてなお学を怠らず、鞍上で読書して落馬し骨を折っても改めなかった。国子博士に除され万紐于氏の姓を賜り、県伯中大夫・開府儀同三司を経て、建徳元年に致仕を上表し許された。朝廷に疑義があれば常に召問された。
- 諸史や《倉頡篇》《爾雅》・篆籀・陰陽・卜筮の書にも通じたが、弁舌が下手で当時はあまり評価されなかった。《孝経喪服問疑》一巻、《七経異同》三巻を撰した。子は義綱。