北史卷八十二 列傳第七十儒林下 沈重

南朝から北周に招かれた儒宗

  • 字は子厚、呉興武康の人。聡悟な性質で幼くして孤児となり、喪に服すこと礼にかなった。専心して儒学を修め、師を求めて遠きを厭わず群書を博覧し、《詩》と《左氏春秋》に特に明るかった。
  • 梁の武帝は儒学を崇めようとし、中大通四年(532年)の選抜で国子助教に補し、後に《五経》博士とした。梁の元帝は藩王時代から重にすでに感嘆し、即位後は主書の何武を遣わして重を西方から迎えた。
  • 西魏(北周)が江陵を平定すると、重は梁主蕭詧に留まり仕え、累遷して都官尚書・領羽林監となり、合歓殿で《周礼》を講じた。北周武帝はその経学と行いを重んじ、宣納上士柳裘に書を持たせて礼聘し、襄州総管衛公宇文直にも護送を敦促させ手厚くもてなした。
  • 保定末に京師に至り、詔により《五経》を討論し鐘律を校定した。天和年間、紫極殿で三教の義を講じ、聴衆は朝士・儒生・僧侶・道士まで二千余人に及び、その弁舌は諸儒に推された。天和六年、驃騎大将軍・開府儀同三司・露門博士を授かり、露門館で皇太子に《論語》を講じた。建徳末、梁への帰還を上表したが武帝は許さず、重ねての願いでようやく許され、楊汪に送らせた。梁主蕭巋は散騎常侍・太常卿を拝させた。
  • 大象二年(580年)京師に来朝。開皇三年(583年)年八十四で卒し、隋文帝は蕭子宝を遣わし少牢で祭らせ、使持節・上開府儀同三司・許州刺史を贈った。
  • 陰陽図緯・道教経典・仏典にまで通じ、当世の儒宗と称された。著書に《周礼義》三十一巻、《儀礼義》三十五巻、《礼記義》三十巻、《毛詩義》二十八巻、《喪服経義》五巻、《周礼音》一巻、《儀礼音》一巻、《礼記音》二巻、《毛詩音》二巻。