北史卷八十一 梁越・盧醜・張偉・梁祚・平恆・陳奇・劉獻之・張吾貴・劉蘭・孫惠蔚・徐遵明・董徵・李業興・李鉉・馮偉・張買奴・劉軌思・鮑季詳・邢峙・劉晝・馬敬德・張景仁・權會・張思伯・張雕武・郭遵
序論:魏より隋にいたる儒学史概観
- 儒教は父子の道を篤くし君臣の関係を正すもので、政治教化の根本であり続けてきたが、永嘉の乱以後、天下が分裂すると礼楽・文章はほぼ絶えかけた。
- 北魏道武帝は中原平定の途上でなお経術を重んじ、太学を建てて《五経》博士・生員千余人を置いた。天興二年(399年)には国子太学の生員を三千人に増やした。四年には楽師に学に入らせ、先師を祀る釈菜の礼を行わせた。
- 明元帝は国子学を中書学に改め、教授博士を置いた。太武帝は始光三年(426年)に城東に太学を興し、盧玄・高允らを招聘し、州郡に才学のある者を推挙させたことで儒術が振興した。
- 献文帝は天安初め(466年頃)に郷学を立て、郡ごとに博士二人・助教二人・学生六十人を置き、後に大郡は博士二・助教四・学生百人、次郡は博士二・助教二・学生八十人、中郡は博士一・助教二・学生六十人、下郡は博士一・助教一・学生四十人と定めた。
- 太和年間、中書学を国子学に改め、明堂・辟雍を建て三老五更を尊び、皇子の学も開いた。洛陽遷都後は国子・太学・四門小学を立てた。孝文帝は学問を篤く好み、劉芳・李彪らを経書で、崔光・邢巒らを文史で登用し、儒学は魏晋・後漢に比肩するほど盛んになった。
- 宣武帝も国学の営建を詔し、四門に小学を置き博士四十人を選んだ。天下太平で燕・斉・趙・魏の間では経書を学ぶ者が数百から千余人に上った。神龜年間には三品以上・五品清官の子弟を国学生に充てようとしたが実現せず、正光三年(522年)にようやく国学で釈奠を行い、祭酒崔光に《孝経》を講じさせ、国子生三十六人を置いた。孝昌の乱後は学校はほとんど失われた。
- 東魏北斉の高歓(斉神武)は辺境の武人出身で、爾朱氏の乱により文教は荒廃していたが、永熙年間に孝武帝が再び国学で釈奠を行い、劉欽に《孝経》、李鬱に《礼記》、盧景宣に《大戴礼夏小正》を講じさせ、生七十二人を置いた。鄴遷都後は国子生三十六人。興和・武定年間、盧景裕・李同軌・張雕武・李鉉・刁柔・石曜らが皇子の師となり儒業が復興した。
- 天保・大寧・武平の各朝も名儒を招き皇太子・諸王に経術を授けたが、聡敏だったのは済南王のみで、他の皇族は驕慢で学に励まなかった。北斉の制度では郡ごとに博士・助教を置いたが有名無実化しており、経業で仕進した者は博陵の崔子発・広平の宋遊卿のみだった。孝廉の考試は射策十条中八条通過で九品出身を許された。
- 西魏北周の宇文泰(周文)は経典を重んじ、盧景宣が五礼の欠を修め、長孫紹遠が六楽を正した。明帝(宇文毓)も学芸を尊び、保定三年(563年)には太保燕公を三老とし、帝自ら太学に赴いて養老の礼を行った。後に沈重を南朝から招き、熊安生を破格の礼で待遇するなど、儒教は天下に広まった。
- 隋の文帝は天下統一後、天子自ら太学に赴いて釈奠の礼を観、博士・侍中が議論を尽くし、中原の儒学の盛況は漢魏以来と称された。晩年は刑名を専らとし仁寿年間には学校を廃して国子学一所(弟子七十二人)のみを残した。煬帝即位後は学校を再興し、劉焯・劉光伯(劉炫)ら南北に通じた学者が輩出したが、のち四夷への遠征と戦乱で学問は衰え滅亡に至った。
- 漢代は鄭玄が諸経に注し、服虔・何休もそれぞれ説を立てて河北で広く行われた。王粛の《易》注も一部で行われた。晋の杜預は《左氏》に注し、玄孫の杜坦・杜驥が劉宋で青州刺史となり家学を伝えたため、斉の地では杜氏学が盛んだった。
経学の師承と南北の学風
- 魏末の大儒・徐遵明の門下では鄭玄注の《周易》が講じられ、遵明はこれを盧景裕・崔瑾に伝え、景裕はさらに権会・郭茂に伝えた。河南・青斉の間では王弼注の《易》が主流だった。
- 《尚書》は徐遵明が鄭玄注(古文ではない)を伝え、浮陽の李周仁、勃海の張文敬・李鉉、河間の権会に受け継がれた。武平末、劉光伯・劉士元(劉炫・劉焯)が費甝の《義疏》を初めて得た。
- 《三礼》はみな徐遵明の門から出た。李鉉・祖俊・田元鳳・馮伝・紀顕敬・呂黄龍・夏懐敬らに伝わり、李鉉はさらに刁柔・張買奴・鮑季詳・邢峙・劉昼・熊安生に伝え、熊安生はさらに孫霊暉・郭仲堅・丁恃徳に伝えた。《毛詩》は魏の劉献之から李周仁、董令度・程帰則、劉敬和・張思伯・劉軌思へと伝わった。
- 河北の《春秋》学は服虔注が主流で、張買奴・馬敬徳・邢峙・張思伯・張奉礼・張彫・劉昼らが精通した。姚文安・秦道静は服氏から出発し後に杜預注も講じ、河外の儒生は杜氏に帰依した。《公羊》《穀梁》二伝を治める者は少なく、《論語》《孝経》は誰もが通じていた。
- 江南(南朝)の学風は《周易》は王弼、《尚書》は孔安国、《左伝》は杜預を主とし、河洛(北朝)は《左伝》は服虔、《尚書》《周易》は鄭玄を主とした。《詩》はいずれも毛公、《礼》はいずれも鄭氏に依った。南人は簡約でその精華を得、北学は該博だがその枝葉を窮める違いがあるが、学問の帰するところは同じだった。
- 魏の梁越以下、時代順に儒林の伝を記す。
梁越――北魏初期の《礼経》博士
- 字は玄覧、新興の人。経伝に博通し性は純和だった。北魏初め《礼経》博士となる。
- 道武帝はその謹厚さを重んじ上大夫に遷し、諸皇子に経書を授けさせた。明元帝の初め師傅の恩により祝阿侯の爵を賜り、雁門太守として出た。
- 白雀を献上して光禄大夫を拝し、そのまま卒した。
盧醜――太武帝の師傅
- 昌黎徒何の人、襄城王魯元の一族。太武帝の監国時代、博学により経を教授した。
- 後に師傅の旧恩により済陰公の爵を賜り、尚書に至り散騎常侍を加えられ、河内太守在任中に卒した。
張偉――太原の名儒
- 字は仲業、太原中都の人。諸経に通じ、郷里で常に数百人に授業した。頑固な質問者にも根気強く諭し、慍色を見せなかった。門人は父のように事えた。
- 太武帝の時、高允らとともに辟命され中書博士を授かり、累遷して中書侍郎・本国大中正となった。酒泉に赴き沮渠無諱を慰労し、また宋(南朝劉宋)に使いし、成皋子の爵を賜った。
- 営州刺史として出て建安公に進爵し、卒すると并州刺史を贈られ、諡は康。
梁祚――《国統》《代都賦》の著者
- 北地泥陽の人。父の梁邵は皇始二年(397年)に北魏に帰し済陽太守となった。祚の代に趙郡に居した。
- 篤志好学で《公羊春秋》・鄭氏《易》に長じ、教授を業とした。幽州別駕の平恆と親交があり、経史を論じ合った。
- 秘書中散に辟かれ秘書令に稍遷したが李䐶に排斥され中書博士に退いた。統万鎮司馬として出て後に散令に徴された。
- 陳寿の《三国志》に倣い《国統》を撰し、また《代都賦》を作って世に行われた。清貧で権勢に交わらず卒した。子の元吉は父の風を受け継いだ。
平恆――《略注》百余篇を撰した秘書丞
- 字は継叔、燕郡薊の人。祖の視・父の儒はともに慕容氏に仕えた。恆は読誦に励み博聞多通で、周代以来魏代までの帝王継承・貴臣昇降を撰述した《略注》百余篇を著した。
- 安貧楽道で、しばしば困窮しても志を変えなかった。中書博士に徴され、後に幽州別駕として出た。廉直で財産を営まず妻子は飢寒に苦しんだ。後に秘書丞に遷り、監の高允は「博通経籍、恆に過ぐる者無し」と称賛した。
- 三人の子はいずれも父業を継がず酒に溺れて自堕落だったため、恆は嘆いて杖を突きながら悲泣した。子らの婚宦の世話をせず、卑しい相手と婚姻させ、蔵書は別に精舎を構えて一奴のみで守らせ妻子にも触れさせなかった。
- 太和十年(486年)、秘書令に任じられたが固辞して郡に出ることを求め、受任前に卒した。幽州刺史・都昌侯を贈られ、諡は康。
陳奇――游雅との確執で刑死した経学者
- 字は脩奇、河北の人。幼くして孤児となり母に至孝を尽くした。経典を愛好し馬融・鄭玄の解釈の誤りを批判し、《五経》の著述を志した。《孝経》《論語》に注し世に伝わった。
- 秘書省の游雅に招かれたが、《易》訟卦「天与水違行」の解釈をめぐり游雅と対立し、游雅は奇をたびたび辱め、祖父の官職を蔑む発言まで浴びせた。奇は毅然と応酬した。
- 高允は奇の見識を称賛し、游雅に「君は朝望具瞻の身で、なぜ野の儒者と章句を争うのか」と諫めたが、游雅は允を奇の党とみなし、奇の《論語》《孝経》注を庭で焼き捨て、京師の後生に伝授を禁じさせた。奇も屈せず游雅の非を評した。
- 游雅が撰した昭皇太后の碑文で前魏の甄后に比した表現を奇が非とし、上聞に及んだ。詔で司徒に検討させ游雅に非があると認められた。
- その後、時政を怨む謗書が現れ游雅はこれを奇の仕業と讒言し、司徒・平原王陸麗が枉罪を惜しみ寛宥を求めたが、獄が成って奇は処刑され家族にも及んだ。
- 奇は《易》に長じ獄中で自ら筮したところ卦が完成する前に破って「来年冬までは生きられまい」と嘆き、その言葉通りになった。召された前夜、星が墜ちて足を圧す夢を見て凶兆と自ら解した。
- 甥の常矯之が奇の《論語》注を伝えたが世に広まらなかった。その説は多く鄭玄と異なり、しばしば司徒崔浩の説と一致した。
劉献之――《詩》《春秋》に長じた博陵の隠士
- 博陵饒陽の人。幼くして孤貧、《詩》《伝》を好み勃海の程玄に学び、のち博く群籍を渉猟した。名法の書を読んでは「楊朱・墨翟の徒がこの書を著さなければ、千載の後に誰がその浅薄さを知ろうか」と笑い、屈原の《離騒》を「狂人の作」と評し、孔子の「無可無不可」に共感した。
- 学ぶ者には「立身は徳行第一。孝悌忠信仁譲を実践できれば自然に天下に知られる。そうでなければどれだけ博聞多識でも土龍で雨乞いするようなもの」と諭した。四方の学者はその行義を慕った。
- 《春秋》《毛詩》に長じたが、《左氏》を講ずるときは隠公八年で必ず止め「義例はもう明らかだ」と述べたため、弟子はその説を最後まで究めることができなかった。
- 郡が孝廉に推挙しようとしたが病と称して帰り、孝文帝が中山に行幸した際の徴召にも「荘子の散木にも及ばぬ身、一度で十分だ」と固辞した。中山の張吾貴と斉名し四海に儒宗と称されたが、吾貴は門徒千人でも実力ある者は少なく、献之は数百人でもみな通経の士だった。
- 《五経》大義に疑滞のある海内諸生は皆その決を献之に仰いだ。《三礼大義》四巻、《三伝略例》三巻、《毛詩序義》注一巻、《章句疏》二巻を撰し、《涅槃経》注は未完のまま卒した。四子は放古・爰古・参古・脩古。
張吾貴――一読して新説を立てた中山の儒者
- 字は呉子、中山の人。少くして聡慧口弁、身長八尺、容貌奇偉。十八歳で本郡の太学博士に挙げられた。
- 先に多くを学んでいなかったため酈詮に《礼》、牛天祐に《易》を学んだが、一読しただけで独自の解釈を立て、世人はこぞって帰依した。
- 夏学で千人の門徒を集めながら《左伝》を講じなかったため生徒に疑われたが、劉蘭に詣でて《伝》を学び、三十日で杜預・服虔両家を兼読して異同をすべて挙げ、諸生の前で講じて義例は尽きず皆新奇で劉蘭も感服した。
- 弁が立ち非を飾ることに巧みだったため学問は長く伝わらなかった。権貴を憚らぬ気概で終生仕官せず生涯を終えた。
劉蘭――《春秋》を精緻に説いた武邑の学者
- 武邑の人。三十余歳で初めて小学に入り《急就篇》を学んだが、家人がその聡敏に気づき師事させた。中山の王保安に《春秋》《詩》《礼》を受けた。
- 家貧のため耕作の傍ら学び、三年後に兄に講説を求めると兄は笑って承知し学舎を建て二百人の門徒を集めた。《左氏》を五日に一遍読み《五経》にも通じた。
- 先に張吾貴は聡辯だったが先儒の旨に基づかなかったのに対し、蘭は経伝の由来と注者の意図を推究し緯候・先儒の旧説も参照して精緻を極め、以後の経義の隆盛は蘭に負うところが大きかった。陰陽にも明るく博物多識で儒者に宗とされた。
- 瀛州刺史の裴植が州南館に招いて講義させ盛況となり、中山王英にも重んじられその子の熙・誘・略らを教えた。門徒は前後数千に及んだが、《公羊》を排し董仲舒を非としたため世に譏られた。国子助教となり、ある来訪者に道理を糺されて間もなく病没した。
孫惠蔚――孝文帝の廟制論争を助けた国子祭酒
- 武邑武遂の人。十五歳で《詩》《書》《孝経》《論語》に通じ、十八歳で董道季に《易》、十九歳で程玄に《礼経》《春秋三伝》を学んだ。
- 太和初め郡から孝廉に挙げられ中書省で対策し、中書監高閭の推薦で中書博士、皇宗博士に転じた。楽律改定に参与し、秘書令李彪と論争して屈しなかった。
- 太和十七年(493年)孝文帝の南征に際し告類の礼を議し、太師馮熙が薨じた際は喪礼を監督し、未冠の子に成人服を着させるよう上書した。孝文帝は「道固(李彪)は既に登龍門したが、孫蔚はなお小官に沈んでいる」とその不遇を惜しんだ。
- 太和二十二年(498年)東宮の侍読となる。孝文帝崩御後、祖廟に神主を祔する際、太祖を平文帝から道武帝に改めたことに伴う昭穆の順が論争となり、侍中崔光は昭穆を改めるべきとし、御史中尉・黄門侍郎邢巒はそのままとすべきとして崔光を弾劾しようとした。崔光は惠蔚に助力を求め、惠蔚はその説を賛して書を送り、崔光がこれを宰輔に呈したことで庭議が開かれ、尚書令王粛も邢巒を助けたが邢巒の理は屈し弾劾は取り下げられた。
- 宣武朝で秘書丞・武邑郡中正に遷り、典籍の混乱を憂え盧昶撰《甲乙新録》に依拠した整理を建議し、国子博士および儒生四十人による専任校勘を求め、詔許された。
- 後に黄門侍郎、崔光に代わり著作郎となったが撰著はなかった。国子祭酒・秘書監に遷り史事を知ることは変わらなかった。延昌三年(514年)棗強県男に封ぜられた。明帝の初め済州刺史として出て、還京後光禄大夫を除された。
- 元は単名「蔚」だったが正始年間の侍講で帝旨に適い「惠」の字を加えられ「惠蔚法師」と号した。卒後瀛州刺史・諡戴を贈られた。子の伯礼は爵を襲い隷書に優れ国子博士となった。
- (附:族曾孫の孫霊暉)――惠蔚の手録した章疏を得て三礼三伝に通じ、鮑季詳・熊安生に質問した。冀州秀才に挙げられ射策高第。北斉に仕え累進して国子博士となり、南陽王高綽の諮議参軍として定州に随行した。高綽が朝廷に王師就任を求めたが三品官の規定に反すると議論になり、後主の手詔で許された。高綽が誅されると停廃され、七日・百日の忌日には僧を招き高綽のために斎を行った。北斉滅亡後に卒した。
- (附:馬子結)――扶風の人で世々涼土に仕え、魏の太和年間に洛陽に入った。兄の子廉・子尚とともに文学に通じ、陽休之の西兗刺史時代に三人で詩を贈答し「三馬皆白眉」と称された。南陽王高綽の管記となり定州に随行、狩猟の供をさせられ落馬しては笑われたが、次第に親しまれ諮議に任じられた。
- (附:石曜)――字は白曜、中山安喜の人。儒学で仕進し清廉な官吏だった。武平中に黎陽郡守となり、丞相咸陽王世子斛律武都の貪欲な収賄要求に対し「これは老石の機で織った絹だ、これ以外は吏民から搾り取るな」と一絹のみを贈って断った。武都も清廉さを知り咎めなかった。《石子》十巻を著したが内容は浅俗だった。譙州刺史で終わった。
- (附:孫霊暉の子・孫万寿)――字は仙期、一字は遐年。聡識機警で経史に博渉し文をよくした。北斉で陽休之の開府行参軍となり、隋文帝受禅後は滕穆王に文学として招かれたが衣冠不整の罪で江南に配された。行軍総管宇文述に召され軍書を典り、望郷の五言詩は都で盛んに詠誦された。帰郷後十余年不遇だったが仁寿初めに豫章王長史、次いで斉王文学となった。諸王が粛清される中謝病して免れ、後に大理司直となり官で卒した。文集十巻が世に行われた。
徐遵明――北朝儒学最大の宗師
- 字は子判、華陰の人。幼くして孤児となり好学、十七歳で郷人と山東に遊学、屯留の王聡に《毛詩》《尚書》《礼記》を師事したが一年で見限り、張吾貴に師事するも「名声は高いが学に厳密さがない」として離れ、田猛略・孫買徳にも師事したがそれぞれ一年で離れた。
- 平原の唐遷に至り蚕舎に六年籠って《孝経》《論語》《毛詩》《尚書》《三礼》を読んだ。陽平館陶の趙世業家に晋の永嘉年間書写の《服氏春秋》があると知り数年通読し、《春秋義章》三十巻を撰した。
- 二十余年門徒を教授し海内に宗仰された。ただし聚斂を好み、劉献之・張吾貴と同様に「影質」と呼ばれる束脩の慣行があり儒者の風格を損なったとも評された。鄭玄《論語序》の「八寸策」を「八十宗」と誤読して強引に解釈するなど僻説もあった(献之・吾貴はそれ以上に僻説が多かった)。
- 兗州に旧縁があり京師を好まず属籍を移した。元顥の洛陽入城時、任城太守李湛の義兵に加わり、夜に乱兵に殺害された。永熙二年(533年)弟子の李業興が策命の追贈を上表したが実現しなかった。
董徴――四王を教えた頓丘の学者
- 字は文発、頓丘衛国の人。身長七尺二寸、古学を好み雅素を尚んだ。十七歳で清河の監伯陽に《論語》《毛詩》《春秋》《周易》を、河内の高望崇に《周官》を学び、後に博陵の劉献之に諸経を遍受した。
- 太和末に四門小学博士。宣武帝に召され孫惠蔚から《六経》の問いを受け、京兆・清河・広平・汝南の四王の教授を命じられた。累遷して安州刺史。
- 述職の帰途に郷里で酒宴を開き「亀を腰にして帰国するは昔から栄誉、節を持って帰郷するは楽しからずや」と語り、富貴は勤学の賜物だと子弟を戒めた。司農少卿・光禄大夫に進み老齢で退官。永熙二年(533年)卒した。孝武帝は往時の学恩に報い儀同三司・尚書左僕射・相州刺史を追贈し諡は文烈。子は仲曜。
李業興――暦法と外交問答で名を挙げた国子祭酒
- 上党長子の人。祖の虯・父の玄紀はいずれも儒学で孝廉に挙げられ、玄紀は金郷令で卒した。業興は少くして耿介志学、晩く徐遵明に師事した。当時徐遵明は無名で、漁陽の鮮于霊馥の門下に紛れて入ったところ霊馥の《左伝》講義の誤りを指摘し、霊馥の生徒はこぞって遵明門下に転じ、遵明の学が盛んになる契機となった。
- 図緯・風角・天文・占候に博渉し算暦に長じた。王遵業の門客となり孝廉に挙げられ校書郎となった。旧暦の誤差を正すため延昌年間に《戊子元暦》を上進、宣武帝の詔で九家の新暦論争がまとまり、業興が主編者に推され《戊子暦》として正光三年(522年)に施行された。後にさらに改訂した。
- 建義初め儀注を掌り著作郎に除され、永安三年造暦の功で長子伯を賜爵、孝武帝登極の礼事に功があり屯留県子に封ぜられ通直散騎常侍を除された。永熙三年(534年)孝武帝の釈奠に魏季景・温子昇・竇瑗とともに摘句を務め、後に侍読となった。
- 鄴遷都に際し起部郎中辛術が業興の博識を営構制度の考定に活かすよう奏請し許可された。営構大匠高隆之も業興を三署の楽器・衣服・百戯の修繕に招いた。
- 天平四年(537年)李諧・盧元明とともに梁に使いし、梁の散騎常侍朱異と洛陽委粟山の郊丘の制、女子の服喪降等、明堂の形制、緯書の信頼性などを論戦し優勢に立った。梁武帝からも《詩》周南・召南の系譜、《尚書》正月上日の暦法、原壌説話、《易》太極の有無などを問われ答えた。帰国後兼散騎常侍・中軍大将軍を加えられた。
- 農家出身で訛った発音を改めなかったため梁人・斉人に笑われたが、業興は動じなかった(「業興も笑われた、公を行かせればもっと罵られよう」)。
- 武定元年(543年)国子祭酒となり侍読を兼ね、高歓(神武)は術数に明るい業興にたびたび軍事を諮問した。芒山の戦いでは風向きから大勝を予言し的中し太原太守に任じられた。武定五年、高澄(文襄)に中外府諮議参軍として招かれた。
- 《九宮行棋暦》を独自に作り、五百を「章」、四千四十を「蔀」、九百八十七を「升分」とし己未を元とする独特の術数を用いた。高澄の潁川征討に際し「必ず勝つがその後に凶事あり」と予言、勝利後に高澄はこれを口実に業興を殺そうとした。
- 蔵書を愛好し家に一万巻近い書を蔵し、豪侠な性格で人が急難にあれば身を挺して匿った反面、気に入らぬ相手には激しく非難する狭量な面もあった。学術の精微さは当時並ぶ者がなかった。二子のうち崇祖が父業を継いだ。
- (附:李崇祖)――字は子述。高澄が朝士を集め盧景裕に《易》を講じさせた際、十一歳の崇祖が論難を重ね景裕を畏怖させた(父の業興が加勢し高澄の不興を買った)。姚文安の《服虔左伝解》批判七十七条「駁妄」に対し崇祖は「釈謬」を著し服氏説を弁護した。斉文宣帝の三台造営では材瓦の計算を担い屯留県侯に封ぜられた。元子武の墓地占卜で「改葬すれば孝文帝と変わらぬ運命になろう」と酔って口走ったことが武成年間に発覚し兄弟ともに処刑された。
李鉉――《字辨》を著した勃海の経学者
- 字は宝鼎、勃海南皮の人。九歳で入学し《急就篇》を月余で通読、家貧のため春夏は農作、冬に就学した。十六歳で浮陽の李周仁に《毛詩》《尚書》、章武の劉子猛に《礼記》、常山の房虯に《周官》《儀礼》、漁陽の鮮于霊馥に《左氏春秋》を受け、郷里に師がいなかったため楊元懿・宗恵振らと徐遵明に師事し五年間高弟と称された。
- 二十三歳で独自に《孝経》《論語》《毛詩》《三礼義疏》《三伝異同》《周易義例》合わせて三十余巻を撰した。用心が過酷で三年間まくらを使わず仮眠のみだった。
- 二十七歳で帰郷し教授、生徒は常に数百人に及び燕趙の経学者の多くがその門から出た。京師に遊学し未見の書を読み、秀才に挙げられ太学博士となった。
- 李同軌の死後、高歓の命で高澄が碩学を選んで諸子を教えさせた際に招かれ晋陽に赴いた。石曜・陽絢・王晞・崔瞻・宋欽道および能書家の韓毅と共に東館で諸王の師友となった。《説文》《倉頡篇》《爾雅》を渉猟し六経注の誤字を正した《字辨》を著した。
- 天保初め邢邵・魏収らと礼律を議し国子博士を兼ねた。新暦の考定にも房延祐・刁柔とともに参与し、正式に国子博士となった。廃帝の東宮時代に文宣帝の詔で経を授け厚遇された。卒すると特に廷尉少卿を贈られ、儒者はこれを栄誉とした。
- (附:楊元懿・宗恵振)――ともに国子博士に至った。
馮偉――三十年隠棲した中山の隠士
- 字は偉節、中山字喜の人。身長八尺、衣冠端正で見る者を粛然とさせた。李宝鼎(李鉉)に学び聡敏を重んじられ、礼・伝に特に明るかった。
- 帰郷後三十年近く門を閉ざし生業も交際も絶ち専心して学び通暁した。斉の趙郡王が定州刺史として礼を尽くして招いても応じず、県令自ら冠履を整えさせてようやく応じた。趙郡王は秀才に推挙しようとしたが固辞。
- 帰郷後も交際を絶ち、郡守県令の訪問にも羊酒の贈与にも応じず、門徒の束脩も一切受け取らなかった。自ら蚕を飼い田を耕し簞食瓢飲で楽しみを改めず、天寿を全うした。
張買奴――門徒千余人の平原の学者
- 平原の人。経義に該博で門徒千余人、諸儒に推重された。北斉に仕え太学博士・国子助教を歴任して卒した。
劉軌思――《詩》に精しい勃海の学者
- 勃海の人。《詩》を説いて甚だ精しかった。同郡の劉敬和(師は程師則)に学び、その郷曲には《詩》を修める者が多かった。北斉に仕え国子博士に至った。
鮑季詳――《礼》と《左氏春秋》に通じた勃海の学者
- 勃海の人。《礼》に明るく《左氏春秋》にも通じた。若くして李宝鼎の都講を務め、後に自ら門徒を持ち諸儒に称された。北斉に仕え太学博士で卒した。
- (附:従弟の鮑長暄)――《礼》《伝》に兼通し、任城王高湝の丞相掾となり都で貴族子弟を教授した。北斉滅亡後に家で卒した。
邢峙――皇太子の師傅
- 字は士峻、河間鄚の人。《三礼》《左氏春秋》に通じた。北斉に仕え四門博士から国子助教に遷り、経をもって皇太子に授けた。
- 方正純厚で儒者の風格があり、皇太子の食膳に邪蒿があるのを「不正な名の菜は殿下にふさわしくない」と取り除かせ、文宣帝はこれを嘉し被褥・縑纊を賜り国子博士に任じた。
- 皇建初め清河太守として恵政を施し、老齢で帰郷して家で卒した。
劉昼――《高才不遇伝》を著した不遇の文人
- 字は孔昭、勃海阜城の人。幼くして孤貧だが学を愛し夏でも犢鼻褌一枚で読書に没頭した。李宝鼎と同郷で親しく《三礼》を受け、馬敬徳に《服氏春秋》を学んだ。
- 郷里に書籍が少ないことを恨み、鄴令宋世良の蔵書五千巻を求めて子弟の博士となり昼夜読み耽った。秀才に応じたが落第し、辞藻を修めなかったことを悔い《六合賦》を作り自ら絶倫と称したが、魏収・邢子才に見せると酷評された(「疥駱駝が伏せているようで嫵媚がない」)。
- 秀才を十年求めても得られず憤慨して《高才不遇伝》を著した。冀州刺史酈伯偉に四十八歳でようやく推挙された。刺史李璵の推挙も「公は国のために人材を選べばよい、私に語る必要はない」と拒んだ。
- 斉河南王高孝瑜に厚遇されたが親密になりすぎることを避けて距離を置いた。孝昭帝即位後は直言を好むと聞いて晋陽に自ら上書したが世務に疎く採用されなかった。その上書を《帝道》として編み、河清中には《金箱璧言》を著し当時の政治を諷刺した。
- 生前、吏部尚書のような貴人から交州興俊令に任じられる夢を見て記録していたが、卒後十余日、幼い娘が「興俊県令に任じられ暇を得て別れを告げに来た」と昼の声で語る怪異があった。「私の数十巻の書を後世に伝えられれば斉景公の千駟にも劣らない」が口癖で、容止は緩慢で仕官することなく家で卒した。
馬敬徳――後主の師傅
- 河間の人。徐遵明に《詩》《礼》を学ぶも精通せず、《春秋左氏》に転じ昼夜研鑽し燕趙間で多くの門徒を教授した。秀才を求め方略五条の試に文理を得て挙送されたが都では中第に留まった。経業十条の試ではすべて通り国子助教から国子博士に進んだ。
- 斉武成帝が後主の師傅を選ぶ際、趙彦深の推挙で侍講となった。妻の夢占い(猛獣の夢で敬徳が棘を越えたことを高官への出世、妻が伏したことを夫人になる意味と解いた)が後に的中した。
- 後主は学問を好まず侍講は疎かになったが、師傅の恩により国子祭酒・儀同三司・金紫光禄大夫・瀛州大中正を拝した。卒後、門弟は「馬先生は孔子に勝る、孔子は儀同を得られなかった」と評し、開府・瀛州刺史を追贈された。後に侍書張景仁が王に封ぜられた際、趙彦深の「侍書が王に封ぜられて侍講に爵位がないとは」との意見で敬徳も広漢郡王を追封され、子の元熙が襲った。
- (附:馬元熙)――字は長明。父業を継ぎ文藻にも長じ、通直待詔文林館となった。武平中、皇太子の《孝経》講義の師に「馬元熙は朕の師の子、文学も悪くない」と後主に選ばれた。隋開皇中、秦王文学で卒した。
張景仁――寵臣となった能書家
- 済北の人。幼くして孤児、家貧のため学書を業として草隷に工み、内書生に選ばれ姚元標・韓毅・袁買奴・李超らと斉名し高澄の賓客となった。
- 天保八年(557年)太原王高紹徳に書を教える勅を受け、後主の東宮時代に武成帝が侍書とさせた。小心恭謹で後主に愛され「博士」と呼ばれた。即位後は通直散騎常侍に累遷。
- 胡人の何洪珍が寵を得て朝士との縁組を求め、その兄の子に景仁の娘を娶らせたことで恩遇が高まった。多病で帝はしばしば医薬を送り見舞いを絶やさなかった。儀同三司・開府に進み侍書は変わらず。文林館の設立後は中人鄧長顒の奏で館事の総判を命じられ、侍中・建安王に封ぜられた。何洪珍の死後も鄧長顒との関係で失脚を免れ中書監に至り卒し、侍中・五州刺史・司空公を贈られた。
- 幼時、洛陽の国学で《石経》を模写した際、許子華が「張郎の風骨は必ず貴顕に至る、天子と筆硯を同じくするだろう」と予言し、二十余年後に的中した。出自が寒微だったため、妻の氏族も不明で公主・郡君と同列に立つと見る者が恥じ入るほどだった。
- 卑謙な性格だったが胡人・宦官の勢を利用して顕達すると次第に驕慢になり、良馬軽裘・高門広宇を誇り子孫は貴遊を自任した。蒼頡以来の八体書法での立身出世は景仁ただ一人と評された。
権会――風角玄象を能くした国子博士
- 字は正理、河間鄚の人。志は沈着高雅で礼則に従った。若くして鄭玄注《易》を受け幽微を極め、《詩》《書》《二礼》にも該博で、風角・玄象にも通じた。
- 北斉に仕え四門博士となり、僕射崔暹の館客として重んじられたが、諸王の師の推挙は左遷と恥じて固辞した。後に国史編修と太史局の監知を経て国子博士に遷った。
- 私室では風角・玄象を一切語らず「これは知ってもよいが語るべきではない、諸君は貴遊の子弟でこの道で進む必要はない」と断った。一子にもこの術を伝えなかった。占筮は常に的中し、家人の帰宅を予知した逸話や、驢馬で怪異に遭った逸話が伝わる。
- 一子の権子襲は聡敏だったが先に死に、会は一度泣いただけで平静を保ち「命に達した人物」と評された。武平末、路上で理由なく馬が倒れ物を言えなくなり急死した。生涯馬を恐れていたが地位のため乗らざるを得ず、結局馬で命を落とした。《易》の注一部が世に行われた。
張思伯――《刊例》十巻の著者
- 河間楽城の人。《左氏伝》を説くことに長け馬敬徳に次ぐと評された。《刊例》十巻を撰し、《毛詩》の章句も作り斉安王高廓に二経を教授した。国子博士に至った。
- (附:張奉礼)――長楽の人。《三伝》に長じ思伯と斉名した。国子助教となった。
張雕武――直諫により誅殺された侍中
- 中山北平の人。家は寒微だったが、兄の蘭武が尚書令史でやや資産があった。護軍長史王元則の宅に寄寓していた頃、雕武の美貌が愛でられ特に教えを受け、以後負笈して各地に師を求め《五経》に遍通し《三伝》に特に明るく、遠方から百を数える弟子が集まった。
- 高歓の霸府に召され諸子と講説した。乾明初め平原太守に累遷したが贓賄で失官、武成帝即位後は旧恩で通直散騎常侍を除された。琅邪王高儼の博士に選ばれ「人を得た」と評判となり、涇州刺史・散騎常侍を歴任した。
- 後主の侍講だった馬敬徳の死後、経書を授ける役目を継ぎ重用され、侍書張景仁とともに尊礼されて華元殿で共に《春秋》を読んだ。国子祭酒・仮儀同三司、文林館待詔を加えられた。景仁が何洪珍に頼っていたため雕武は彼の指南役を務め「二張博士」と称された。穆提婆・韓長鸞は雕武が何洪珍の謀主であることを忌み嫌った。何洪珍の推挙で国史監修・侍中・開府・度支事を歴任し、奏事に趨る必要のない特権を得て「博士」と呼ばれた。
- 澄清を己が任と自負し、寵臣の恣意を許さず数々の諫言を行った。あるとき「行政実務なら雕武は邕(唐邕)に及ばぬが、堯舜のような主君を輔けるなら邕は私に及ばない」と自負を語り、韓長鸞らに恨まれた。晋陽行幸を諫めた崔季舒・郭遵とともに韓長鸞に讒言され誅殺された。刑に臨み段孝言の詰問に「臣は諸生から出て寵栄を得た。今回の諫言は臣が首謀、意図は善だが結果は悪、死は逃れられぬ。願わくば陛下、賈誼のような人材を重んじ聡明を曇らせぬように」と述べ涕泣して死に就いた。周囲は皆その気概を惜しんだ。
- (附:子の張徳沖ら)――北辺に流されたが、南安王思好の反乱の際は連座を免れた。徳沖は聡敏好学で帝師の子として早くに登用され中書舎人となった。父の処刑に際し殿廷で目の当たりにし号泣して倒れ、しばらくして蘇生した。
郭遵――韓長鸞に忌まれた黄門侍郎
- 鉅鹿の人。斉文宣帝の太原公時代に国常侍となり、高歓家の家務を執る蓋豊洛(蓋将)の処置に抗って高徳正に評価された。斉受禅後は主書に抜擢され訪察を専任した。
- 弟子のために官職を求めたことで中書舎人朱瑀の怒りを買い、鞭打ち二百に処され京畿に付された。後に并省尚書都令史・建州別駕を歴任、韓長鸞の父韓永興が刺史となった縁で長鸞に接近し黄門侍郎に擢用されたが、後に誅殺された。
- 出自が卑賤だったため得意になりやすく、宮門で貴人に会うと姓名を呼び捨てにするなど軽率だった。宮門で韓長鸞を引き止め「王は諫言を聞くべき立場、主上がこれほど放縦なのに規諫もしないとは、どうして大臣と言えるか」と迫ったが、長鸞は嫌って手を振り払い去った。この一件で援護を得られず禍に遭った。