北史卷七十八 列傳第六十六 陳稜

生涯と最期

  • 字は長威、廬江襄安の人。祖の碩は漁労で生計を立てた。父の峴は若くして驍勇で章大寶の帳内部曲となり、大寶の謀反を密告して譙州刺史を授かった。陳滅亡後、家で廃せられていた。
  • 高智慧・汪文進の反乱に廬江の豪傑も呼応して挙兵、峴を旧将として主に推した。峴は拒もうとしたが陳稜は「乱が起きた今、拒めば禍が及ぶ、偽って従い後に策を巡らせるべき」と説き、峴もこれに従った。密かに柱國李徹に内応を申し出て、李徹はこれを奏上、上大將軍・宣州刺史・譙郡公を拝し帝は李徹に呼応させたが、李徹の軍が至る前に謀が漏れて峴は党に殺され、陳稜だけが免れた。上は父の功により陳稜に開府を拝させ郷兵を統率させた。
  • 大業三年(607年)、武賁郎將を拝す。のち朝請大夫張鎮周とともに義安から海を渡り流求國を攻めた。流求人は初め船艦を商船と思い交易に来たが、陳稜は上陸し張鎮周を先鋒とし、流求主歡斯渴刺兜の抗戦を破った。低沒檀洞に進むと小王歡斯老模が抗戦し、これを破って老模を斬った。霧雨で将士が恐れる中、白馬を殺して海神を祭ると晴れ、五軍に分かれ都邑に進み、勝ちに乗じて追撃し柵を破って渴刺兜を斬り、子の島槌を捕らえ男女数千を虜として帰った。帝は大いに喜び陳稜に右光祿大夫、張鎮周に金紫光祿大夫を加えた。
  • 遼東の役で宿衛の功により左光祿大夫に遷る。翌年、帝が再度遼東を征すると陳稜は東萊留守となった。楊玄感の乱で黎陽を平定し、玄感の任じた刺史元務本を斬った。江南で戦艦を建造する詔を受け彭城に至ると、賊帥孟讓が都梁宮に拠り淮水を頼みに立てこもっていたが、陳稜は下流から密かに渡って江都を襲い破った。功により光祿大夫に進み信安侯を賜った。
  • 帝の江都宮行幸後、李子通が海陵に拠り、左才相が淮北を略奪し、杜伏威が六合に屯した際、帝はこれを撃たせて度々勝利させ右禦衛將軍に抜擢した。清江を渡って宣城の賊を撃った。まもなく帝が弑逆されると、宇文化及が軍を北に引き上げ、陳稜を江都守りに召した。
  • 陳稜は衆を集め喪服を纏い煬帝のために発喪し儀衛を整え、吳公台の下に改葬し、喪杖をついて送葬に涙し行く人々を感動させた。論者はこれを深く義とした。のち陳稜は李子通に破られ杜伏威のもとへ逃れたが、伏威に忌まれて殺害された。