生涯と最期
- 字は警略、馮翊蒲城の人。祖の訓は行商で財を成した。魏の代、粟を出して軍糧を助け仮清河太守となった。王辯は少くして兵書を学び騎射に優れ大志を抱いた。周に仕え軍功で帥都督を授かる。
- 仁壽中、車騎將軍に累進。楊素の漢王楊諒平定に従い武寧縣男の爵を賜り、軍功で通議大夫に至り、まもなく武賁郎將に遷った。山東の盗賊蜂起に際し帝に御榻の側へ召され方略を問われ、王辯の献策に帝は「まさにその通りなら賊は憂うるに足らぬ」と称賛した。歩騎三千を発してこれを撃破し黄金二百兩を賜った。
- 勃海の賊帥高士達が東海公を自称し衆万を数えた際、王辯はこれを撃ちしばしばその鋭鋒を挫いた。帝は江都宮でこれを聞き召し出して厚く賜い、再び信都で士達を経略させ再度撃破、優詔で顕彰された。
- 郝孝德・孫宣雅・時季康・竇建德・魏刀兒らの賊が河北を荒らす中、王辯はこれを撃ち向かうところ皆捷った。翟讓が徐・豫を犯した際も頻りに撃退した。翟讓がのち李密と洛口倉に屯拠すると、王辯は王世充とともに討ち、洛水を挟んで一年余対峙、王辯は李密を攻めて敗走させた。
- 勝ちに乗じて入城しようとした際、王世充はそれを知らず将士の疲労を懸念して角笛で兵を収め、逆に李密方に乗じられ官軍は大潰、収拾がつかなくなった。王辯は洛水に至ったが橋は既に壊れていた。中流まで渡ったところで溺れる者に引きずり込まれ落馬し、そのまま溺死した。三軍は皆これを深く惜しんだ。
斛斯萬善(附:王辯と併称される者)
- 河南の人。驍勇果毅で王辯と並び称された。衛玄の楊玄感討伐に従い、数騎で追撃して玄感を窮地に追い自殺させた。これにより名を知られ武賁郎將を拝した。
- 突厥の始畢可汗が雁門を囲んだ際、奮戦してことごとく打ち破り、突厥は城に迫れず十数日で退いた。これは萬善の功であった。のちしばしば群盗を討ち功を重ね將軍に至った。
- なお將軍鹿願・范貴・馮孝慈も皆将帥として征伐に従い名を挙げたが、事跡は失われ史官も詳細を欠くとされる。