北史卷七十八 列傳第六十六 魚俱羅

生涯と最期

  • 馮翊下邽の人。身長八尺、膂力人に絶し声も雄大で数百歩先まで聞こえた。大都督として晉王楊廣の陳平定に従い、功により開府を拝した。沈玄懀・高智慧らの江南反乱に楊素は魚俱羅の壮勇を見込み同行させた。功により上開府に加えられ、高唐縣公に封ぜられ疊州總管を拝した。
  • 母の喪により職を退いたが、扶風に戻る途中、楊素の靈州道からの突厥討伐に出会い同行を求められた。賊に遭遇すると数騎で突撃し目を怒らせて大呼、当たるところ皆逃げ散った。功により柱國に進み豐州總管を拝した。突厥は侵入するたびに捕斬され、以後は塞外で牧畜すらしなくなった。
  • 煬帝が藩邸にあった頃、俱羅の弟贊は側近として仕え大都督に累進した。帝即位後、贊は車騎將軍を拝したが凶暴で、肉を炙らせて気に入らねば簪で目を刺し、酒の味が悪ければ舌を切るという有様だった。帝は旧縁により誅殺を忍びず、近臣に「弟がこうなら兄も推して知るべし」と語り、俱羅を呼んで責め、獄から贊を出して自ら処するよう命じた。贊は家に戻り毒を飲んで死んだ。
  • 帝は俱羅の不安を懸念し安州刺史に転じさせ、のち趙郡太守に遷した。朝集で東都に至り将軍梁伯隱と旧交を温め往来を重ね、郡から雑物を貢献しつつ帝が受け取らない分を権貴に贈った。御史がこれを郡将と内臣の交通として弾劾し、帝は大いに怒って伯隱ともども除名した。
  • まもなく越巂の飛山蠻が反乱を起こし、詔により俱羅は白衣のまま将として蜀郡都尉段鐘葵とともに討平した。大業九年(613年)、再度の高麗征討で碣石道軍將となった。帰還後、江南で劉元進が乱を起こすと会稽諸郡へ向かい討伐を命じられたが、百姓が争って賊に投じる中、賊帥硃燮・管崇らと戦うも賊勢は盛んで敗れては再び集まった。
  • 俱羅は賊平定に長期を要すると見て、子らが皆京・洛にあり天下も乱れつつあることから道路の断絶を恐れた。東都が飢饉で穀物が高騰していたため家僮に船で米を送らせて売らせ財貨を蓄え、密かに子らを迎えようとした。朝廷はこれを察知して謀反の疑いをかけたが確証は得られなかった。帝は大理司直梁敬真に鎖で東都へ護送させ、俱羅の相貌が瞳が重なる異人であることから帝の忌避を受けていたところ、敬真は帝の意を汲んで俱羅の軍が敗れたと奏し、東都の市で斬られ家族は籍没された。