出自と諫言
- 李諤は字を士恢、趙郡の人。博学で文をよくした。斉に仕え中書舎人となり弁才で陳使の応対を務めた。周の斉平定後は天官都上士。隋文帝に帝王の器を見出し深く結び、文帝が丞相のとき『重穀論』を上って国用の虚耗を諷諫し容れられた。受禅後、比部・考功二曹侍郎を歴任し南和伯を賜った。性格は公方で時務に明るく書侍御史に遷った。文帝は「私が大司馬だった頃、外職を求めたが李諤が十二策を献じ強く諫めたため内職に留まった、今日の事業は諤の力による」と語り物二千段を賜った。
- 諤は礼教の衰えを憂え、公卿の没後にその愛妾・侍婢を子孫が売り払う風潮を上書で戒めた(要旨:三年の喪を守らず妾妓を金に換えるのは風化を損なう、五品以上の妻妾の改嫁を禁ずべき)。文帝はこれを嘉納し五品以上の妻妾の改嫁禁止はここに始まった。
文体の刷新を求める上奏
- 諤は当時の文体が軽薄に流れることを憂え上書した(要旨:古の聖王は視聴を正し嗜欲を防ぎ淳和の道を示した、詩書礼易は道義の門であり上書献賦制誄鐫銘も本来は褒徳序賢のためのものだった。魏の三祖以来、文詞が重んじられ雕虫の小芸が好まれ、江左の斉梁ではその弊が甚だしく、貴賤賢愚を問わず吟詠のみに務め、月露風雲の空虚な描写に終始する詩文が氾濫し、これに禄利の道が結びついて童子まで六甲も学ばぬうちに五言詩を作るようになった。羲皇・舜禹の典や伊尹・傅説・周公・孔子の説は顧みられなくなった。傲誕を清虚とし縁情を勳績とみなし、儒素を古拙、詞賦を君子と称える風潮が政を乱した)。
- 大隋受命後は浮詞を退け華偽を遏え、開皇四年には天下に実録を旨とする詔を布告、泗州刺史司馬幼之が文表の華艶を理由に罪に問われたことを機に公卿大臣は正道に立ち返ったが、外州遠県ではなお旧弊が残り、学問より軽薄な文章と朋党で名誉を求める者が選ばれる例があるとし、県令・刺史の風教の不徹底を指摘、憲司として糾察を強化すべきと訴えた。
- 諤はまた当官者の自矜自伐の弊についても上奏し、罪を加え黜けることで風紀を正すよう求めた。文帝は諤の上奏を天下に頒示し、四海がこれに靡いて弊風は大いに改まった。諤は在職中、厳猛を尊ばず大体を重んじたため剛謇の誉れはなかったが、匡正の志を密かに抱いていた。
- 邳公蘇威が路傍の店舎を求利の徒として農に帰すよう奏し旧店を撤去させようとした際、冬の時期で誰も訴え出られなかったが、諤は別の使命でこれを見て「農工にはそれぞれ生業があり、旅籠と市籍を同一視するのは理に合わない、行旅の便を損なうだけ」として独断で旧のままとし、事後に上奏した。文帝は「体国の臣とはこうあるべき」と善しとした。老齢のため通州刺史に出て恵政をなし人々を悦服させ官にて没した。
- 四子あり、世子の大方は最も才器に優れ大業初に内史舎人の判事、次子の大体・大鈞はともに尚書郎。