梁から西魏・周へ
- 裴政は字を德表、河東聞喜の人。祖の邃、父の之礼はともに『南史』に伝がある。政は幼くして聡明博聞、政務に通じ世に称された。梁に仕え軍功で夷陵侯・給事黄門侍郎に封ぜられた。
- 魏軍が荊州を囲んだ際、政は城外で捕らえられた。蕭詧は「私は武皇帝の孫、君にできぬわけがない、身を七父(元帝)に殉じずとも私の計に従えば子孫まで富貴を得られる、さもなくば首を刎ねる」と迫り、政を鎖で城下に送り「援兵の大軍が至る、王僧辯は台城陥落を聞いて自ら帝を称し、王琳は孤弱でもう来られない」と元帝に伝えさせようとした。政はいったん承知したが城中に着くと「援兵が大軍で来ている、私は間諜として捕らえられたが、身を砕いても国に報いる」と叫んだ。監視の者が口を塞いだが屈しなかった。蕭詧は怒って処刑を命じたが、蔡大業が「この者は人望がある、殺せば荊州は落とせなくなる」と諫めて助命された。江陵陥落後、城中の朝士とともに京師に送られた。
- 周文帝はその忠節を聞き員外散騎侍郎とし相府に引き入れた。盧辯とともに『周礼』に依って六官を建て朝儀・車服器用の多くを古礼に則って定め漢魏の法を改め実施した。刑部下大夫から少司憲に転じ、周律の制定にも参与した。政は数斗の酒を飲んでも乱れず、山積する案件を流れるように裁決し用法は寛平で冤罪がなかった。極刑の囚には妻子を獄に入れて面会させ、処刑前には「裴大夫が私を死なせるのなら死んでも恨みはない」と皆言ったという。楽律にも通じ長孫紹遠と楽を論じたことは『紹遠伝』にある。
隋代の律令編纂と最期
- 開皇元年、率更令・上儀同三司として蘇威らと律令の修定に参与、魏晋の刑典から斉・梁に至る沿革を採り軽重の折衷を図った。編纂者十余人のうち疑滞は皆政の決に委ねられた。散騎常侍から左庶子に進み、匡正すること多く純愨と称され東宮の大事は皆政に委ねられた。
- 右庶子の劉栄が専横であった際、通事舎人趙元愷が武職交番の辞見帳を作成中、太子の再三の催促に栄が「口頭で奏せよ、帳は作らずともよい」と命じたが、後に太子が帳の所在を問うと元愷は「栄の命で作らなかった」と述べ、栄は否認し太子は政に推問させた。栄に阿附する者が先んじて太子に「政は栄を陥れようとし推問は事実に基づかない」と讒言したが、政は「情理を察するに二人はいずれもありうる、証拠が対立する以上は証言で決すべき」とし、元愷が挙げた左衛率崔茜らの証言が元愷と一致することから「栄が元愷に語ったのは事実」と結論した。太子は栄を罰さなかったが政の公平を称えた。
- 政は面と向かって人の短を指摘するが陰口は言わなかった。雲定興が太子に奇服異器を献じ後宮に取り入り女寵を頼みに出入りしていたことを何度も諫めたが太子は聞かず、政は定興に「あなたのなさりようは礼度に合わない、元妃の急死も巷で噂になっている、太子のためにも自ら身を引くべき、さもなくば禍が及ぶ」と告げた。定興は怒って太子に告げ、太子は政をますます遠ざけ、政は襄州総管に出された。妻子は任地に伴わず俸禄は僚吏に分け与えた。犯罪者を密かに調べ上げ、時に年をまたいで放置し再三の犯行を重ねさせた上で人の集まる場で摘発し自ら罪を裁いた(五人を死罪、多くを流罪・徒罪に処す)。境内は震え上がり令行禁止で神明と称され、以後は牢獄も訴訟もほとんどなくなった。官にて没した。『承聖実録』十巻を著した。太子廃立の後、文帝は「裴政・劉行本がいれば共に太子を匡弼できただろうに」と追憶した。
- 子の南金は膳部郎、学問と文才があり財を軽んじ義を重んじると称された。