薛世雄
- 薛世雄は字を世英、本は河東汾陰の人だが先祖は敦煌に寓居した。父の回は字を道弘といい周涇州刺史、開皇初に舞陰郡公に封ぜられ漕渠監を領した。世雄は幼少期の遊戯でも地に城郭を描き諸児に攻守の役割を演じさせ、命に従わぬ者を打つほどで、皆が畏憚し整然としたという。父はこれを見て「この子は我が家を興すだろう」と語った。十七歳で周武帝の斉平定に従い功により帥都督を拝命、開皇中に右親衛車騎将軍に進んだ。
- 煬帝嗣位後、右監門郎将から吐谷渾征討で通議大夫に進んだ。世雄は廉慎で軍が敵地を破っても秋毫を犯さず、帝はこれを嘉した。帝が「善き人物を挙げたいが君たちは誰か知っているか」と問い群臣が答えられぬ中、帝自ら「私は薛世雄を挙げたい」と述べ群臣は賛同、右翊衛将軍に抜擢された。玉門道行軍大将軍として突厥啓人可汗の兵と伊吾を攻めたが、啓人は約に背き軍を寄越さず、世雄は孤軍で磧を渡った。伊吾は懼れて降り、世雄は漢の旧伊吾城の東に新伊吾城を築き、銀青光禄大夫王威を残して鎮させ帰還、正議大夫に進んだ。
- 遼東の役では沃沮道の軍将として宇文述とともに平壌で敗績、白石山まで退いた際は百重に囲まれ矢が雨のように降ったが、世雄は疲弊した兵で方陣を組み精騎二百で反撃を仕掛けて囲みを破って帰った。損失は大きく免官された。翌年の帝の再度の遼東征討では右候衛将軍として蹋頓道に出、烏骨城まで至った際、楊玄感の乱で班師した。帝が柳城に至ると東北道大使・燕郡太守摂・懐遠鎮守に任じられた。
- 大業十年、再び帝に従い遼東に至り左禦衛大将軍・涿郡留守を兼ねた。李密が東都に迫ると幽・薊の精兵を率いて撃つよう詔されたが、河間まで進み城南に営を構えた際、竇建德が精鋭数百で夜襲し大敗、世雄は左右数十騎で河間城に逃げ込み、慚愧のあまり病を発した。涿郡に戻って没した。子の万述・万淑・万鈞・万徹・万備は皆驍武で知られた。
史論
- 段文振は周代に早くから武毅を認められ、隋初には幹力をもって文武の要職を委ねられ諒直と称された。その高位厚禄は虚しく得たものではない。
- 来護児は幼くして倜儻さを抱き晩年に勤王を尽くし、楼船での勝利は劣勢の敵を拾うが如く、閿郷での討逆は凶魁を摧朽の勢いで破った。上将の位に至り大国に居ながら、道尽きて難に遭っても忠は変わらなかった、惜しむべきである。
- 樊子蓋は幹局に優れ性質は方厳、義を見て勇み機に臨んで断を能くし、邦邑を保全した功は大きい。
- 周羅碶の忠亮の性は所在で重んじられ、旧主を送る節義は臣下の心を動かし、死してなお霊があれば結草の恩義に等しい。周法尚も四夷討伐の功で称するに足る。
- 衛玄は東都の包囲を解いた功は宣力といえるが、西京留守では賄賂が横行し鄙しむべきであった、何ほどのこともない。
- 劉権は淮楚の旧族として早くから雄名を知られ、擾乱の時世に遭っても子の邪言を拒み尉佗に等しい忠誠の節を示した。李景・薛世雄はともに驍武の用をもって有事の時に富貴を得た、いわば自ら取ったものである。時に恵まれず躓いたのも、まことに天命であろう。