李景
- 李景は字を道興、天水休官の人。父の超は周の応・戎二州刺史。景は容貌奇偉、膂力人に過ぎ、美髯で驍勇騎射に長けた。斉平定の役で功を立て儀同三司を授かり、尉遅迥討伐の功で開府・平寇県公に進んだ。隋開皇九年、行軍総管王世積の陳討伐に従い上開府に進み、高智慧らの反乱でも楊素の行軍総管に従い鄜州刺史となった。
- 開皇十七年、遼東の役で馬軍総管となり漢王に配された。文帝はその壮武を「相貌は人臣を極める」と評した。史万歳の突厥討伐(大斤山)で別路から挟撃し大破に貢献、義成公主を突厥に送る楊紀に従い恒安で突厥の来寇に遭った際、代州総管韓洪が敗れる中、数百の兵で三日戦い抜いた。韓州刺史に改められたが王の事情で赴任しなかった。
- 仁壽中、代州総管検校。漢王諒の乱では兵を発して拒み、劉嵩・喬鐘葵らの攻撃に対し兵士とともに殊死の戦いを続けた。司馬馮孝慈・司法参軍呂玉の驍勇、儀同三司侯莫陳乂の謀略・守備術を信頼し自らは閤で持重し時に撫循するのみとした。朔州総管楊義臣の援軍到着で合撃し大破した。この間、府内の井戸の甃に蓮花状の異象、龍の出現、鉄馬甲士への変化、身の丈数丈の神人の出現(跡の長さ四尺五寸)などの怪異があり、占者が「凶事の前兆で血を食らいに来る」と告げ景は怒って追い出したが、旬日後に敵が至り死者数万を数えた。景は召還され柱国・右武衛大将軍に進み女楽一部と珍物を賜った。
- 景は智略には優れなかったが忠直で時に許され帝の信任厚かった。叛蛮向思多の討伐、吐谷渾の青海での撃破の功で光禄大夫に進んだ。大業五年、帝の西巡(天水)で食を献じ「公は主人である」と齊王暕の上座に坐らされた。隴川宮での大猟に難色を示したことを人に奏され、帝は大いに怒って景を□(底本欠字)に処すよう命じ、それにより免官されたが、翌年復位し宇文述らと選挙を掌った。翌年、高麗の武列城を攻め破って苑丘侯を賜り、八年に渾弥道、九年に再び遼東に出て、殿軍を務めた際は高麗の追撃を撃退、滑国公に進んだ。楊玄感の乱では朝臣子弟が多く関与する中、景独り無関係であったため帝は「公の誠直は天然のもの、我が梁棟である」と美女を賜った。帝は常に「李大将軍」と呼び名を呼ばなかったほど重んじた。
- 大業十二年、北平で遼東戦具の営造を命じられ御馬(師子䭷吉)を賜った。盗賊蜂起の中、景は召募して不虞に備えたが、武賁郎将羅芸との軋轢から謀反を誣告され、帝は子を遣わして「たとえ人が公が天闕を窺い京都に拠ると言おうとも朕は疑わない」と慰諭した。高開道に囲まれ孤城を守るうち脚気で死ぬ兵が十のうち六七に及んだが景はよく撫循し離叛する者がなかった。遼東の軍資が多く景の手元にあり粟帛が山積したが私せず用いなかった。帝が江都で崩御すると遼西太守鄧皓が救援に来て柳城に帰ったが、幽州へ戻る途上で賊に遭い殺された。契丹・靺鞨は常々その恩に感じており死を聞いて涙しない者はなく、幽・燕の人士も今なおこれを惜しんでいるという。子は世謨。