北史卷七十六 列傳第六十四 劉權

劉權(附:世徹)

  • 劉権は字を世略、彭城豊の人。祖の軌は斉羅州刺史。権は若くして俠気に富み信義を重んじ、亡命者を匿っても吏が手を出せないほどであったが、後に節を折って学問に励み法度に従うようになった。斉に仕え行台郎中となり、斉滅亡後は周武帝に仮淮州刺史とされた。開皇中、車騎将軍として郷兵を領し、晋王広の陳平定に従い開府儀同三司に進んだ。宋国公賀若弼に厚遇された。
  • 開皇十二年、蘇州刺史・宋城県公を賜り、江南平定直後の地を恩信で撫で人和を得た。煬帝嗣位後は衛尉卿・銀青光禄大夫、大業五年の吐谷渾征討では伊吾道に出て青海まで賊を追い伏俟城まで進撃、続いて曼頭・赤水を越え河源郡・積石鎮を置き屯田を大いに開いて西境を五年鎮守、諸羌が懐き貢賦も途絶えなかった。司農卿・金紫光禄大夫を経て南海太守となる途上、群盗の蜂起で進めなくなり召募討伐を命じられると、権は単舸で賊営に赴き利害を説いて群賊を一時に降した。帝はこれを嘉した。
  • 南海到着後は異例の善政を敷いたが、数年後に再び盗賊が群起し多くの豪傑が権を首領に推そうとしたが権は固く拒んだ。子の世徹が密使を送り「四方が乱れている、挙兵すべき」と諷したが、権は佐僚を召し使者を斬らせ叛意のないことを示し、死をもって守った。官にて没した。
  • 世徹は倜儻不羈で時人に許されたが、大業末の群雄割拠の中でどこへ行っても忌まれ多く拘禁された。後に兗州の賊帥徐円朗に殺された。権の従叔の烈は字を子将、容儀秀麗で器量があり鷹揚郎将となった。その子の徳威は世に知られた。