出自と隋初
- 衛玄は字を文升、河南洛陽の人。祖の悦は魏司農卿、父の舣は侍中・左武衛大将軍。玄は幼くして器識があり周武帝が籓王の頃に記室として引かれた。給事上士に遷り興勢公を襲爵、武帝親政期には益州総管長史・万釘宝帯を賜り強済と称された。開府儀同三司・太府中大夫・内史事摂・京兆尹を兼ねた。
- 隋文帝の相府期には熊州事検校、受禅後は淮州総管・同軌郡公に進んだが事に坐して免官、まもなく嵐州刺史となり長城の役を監督した。仁壽初、山獠反乱に際し資州刺史として単騎で賊営に赴き「私は刺史であり天子の詔で汝らを安養する、驚くな」と説いて渠帥を悦服させ十余万口を帰順させた。文帝は絹二千匹を賜り遂州総管・剣南安撫を命じた。
煬帝代の軍功と楊玄感の乱
- 煬帝即位後、衛尉卿に再召され、夷獠が数百里も見送り皆涙を流したという。工部尚書から魏郡太守(尚書兼帯)、右衛大将軍・候衛事検校、刑部尚書を歴任。遼東の役では右禦衛大将軍検校として増地道に出、諸軍が不利な中で独り全軍を保って帰り金紫光禄大夫を拝命した。
- 九年、帝の遼東行幸に際し代王侑とともに京師留守・京兆内史として便宜従事を許され代王には師傅の礼で接するよう勅された。楊玄感が東都を囲むと玄は歩騎七万を率いて援軍に赴き、途上で楊素の墓を掘り骸骨を焼いて塋域を夷らげ士卒に必死の覚悟を示した。潼関を過ぎ崤函の伏兵を恐れる議論があったが玄は「これは小人の考えることではない」として鼓行し進んだ。函谷を過ぎると案の定伏兵はなく、武賁郎将張峻の疑兵を南道に、大軍は自ら城北へ直進した。玄感の迎撃に応じつつ金穀に屯し、軍中で地を掃って文帝を祭り「もし社稷が続くなら醜徒は必ず砕け散る、もし大運が尽きたなら老臣が先に死ぬのみ」と誓い、三軍は皆涙した。衆寡不敵の激戦で死傷は半ばに及んだが玄は苦戦の末に賊を退け北芒に進んだ。宇文述・来護児らの援軍が至ると玄感は西に逃れ、玄は通議大夫斛斯万善・監門直閤龐玉を先鋒に追わせ閿郷で宇文述らと合撃してこれを破った。
- 帝は高陽で玄を「社稷の臣、朕に西顧の憂いをなくしてくれた」と労い右光禄大夫・良田甲第・巨万の資物を賜り京師の鎮守に戻し「関右の任は公に一任する、公が安ければ社稷も安く、公が危うければ社稷も危うい、出入りに兵衛を伴い常に自ら慎め」と述べ千兵を侍従に与え、樊子蓋とともに玉麟符を賜った。
関中撫慰と晩年
- 大業十一年、関中撫慰を命じられたが、盗賊が蜂起し百姓が飢饉に苦しむ中、玄は救済できず官紀も乱れ賄賂が横行した。老齢を理由に致仕を上表すると帝は内史舎人封徳彝を遣わし「京師は国の根本、宗廟園陵の在る地、公が臥してでも鎮めるべき」と説き玄は思いとどまった。義軍(唐軍)が関中に入ると玄は守り切れないと悟り病と称して政務を執らず、城が陥ちると家に帰った。義寧中に没した。子の孝則は通事舎人・兵部承務郎で没した。