北史卷七十六 列傳第六十四 樊子蓋

廬江の人、字は華宗。斉に仕えたのち周・隋に仕えた官吏で、煬帝期に東都留守として楊玄感の乱を鎮圧した功臣。厳酷な統治で知られ、晩年は絳郡の反乱討伐に失敗し病没した。

年表(10件)
  • 陳平定の役(開皇九年)で功を挙げ、上開府・上蔡県伯に改封される
  • 開皇十八年入朝して嶺南の地図を奏上し四州を統べる権限を加えられる
  • 煬帝即位後涼州刺史から銀青光禄大夫・武威太守に進み善政で聞こえる
  • 大業三年入朝して金紫光禄大夫を加えられる
  • 大業五年西巡で吐谷渾に入り右光禄大夫に進む
  • 大業六年戸部尚書に転じ、のち涿郡留守となる
  • 大業九年楊玄感の乱で東都留守として撃退し光禄大夫・建安侯を賜る
  • 大業十年済公に進爵する
  • 大業十一年雁門での帝の突厥包囲を来護児と共に諫めて解かせる
  • 東都帰還後絳郡の反乱討伐に失敗し召還途中に病没する

隋初から煬帝初期

  • 樊子蓋は字を華宗、廬江の人。祖の道則は梁越州刺史、父の儒は侯景の乱で斉に奔り仁州刺史。子蓋は斉に仕え東海・北陳二郡太守・員外散騎常侍・富陽侯を歴任。周武帝の斉平定後は儀同三司・郢州刺史。
  • 隋文帝受禅後、儀同として郷兵を領し楼陽太守を経て、陳平定の役の功で上開府・上蔡県伯に改封、辰・嵩・斉三州刺史を歴任、循州総管として便宜従事を許された。開皇十八年、入朝して嶺南の地図を奏上し良馬雑物を賜り四州を統べる権限を加えて任地に戻り、光禄少卿柳謇之が霸上で餞別した。

煬帝の重用と楊玄感の乱

  • 煬帝即位後、涼州刺史から銀青光禄大夫・武威太守に進み善政で聞こえた。大業三年、入朝して金紫光禄大夫を加えられ、五年の西巡で吐谷渾に入る際は瘴気を防ぐ青木香を献じた。「あなたは清廉だと聞くが本当か」との問いに「敢えて清廉とは言えぬ、ただ小心で賄を受けぬだけ」と答え、口味百余斛を賜り右光禄大夫に進んだ。「陛下にお仕えしたい」と述べる子蓋に帝は「公が朕に仕えるのは一人の助けに過ぎぬが、西方を任せれば万人の敵となる、その心を知れ」と諭した。
  • 六年、帝が隴川宮に避暑し河西行幸を口にすると子蓋は鑾輿を望んだが、帝は慰勉の詔を下した。同年、江都宮に朝じた際「富貴にして故郷に帰らねば錦を着て夜行くようなもの」との言葉を受け廬江郡に三千人の会を設けさせ米麦六千石を賜り墳墓参拝と故老への宴を許され、当時大いに栄えた。戸部尚書に転じ、処羅可汗・高昌王の来朝に応接するため武威太守検校を兼ね、遼東の役では左武衛将軍摂として長岑道に出たが宿衛のため実行せず左光禄大夫に進んだ。その年、帝の東都帰還に伴い涿郡留守とされた。
  • 九年、帝の再度の遼東行幸で東都留守を命じられた折、楊玄感の逆が城に逼ると子蓋は河南賛務の裴弘策を迎撃に遣わしたが敗れ、弘策を斬って徇した。国子祭酒楊汪の不恭も斬ろうとしたが頓首流血して赦された。三軍は震慄し将吏は仰視できなかったという。玄感の猛攻を子蓋は徐々に備えを固めて撃退し、来護児らの援軍到着で玄感は囲みを解いた。子蓋の誅殺者は総計一万人に及んだ。河南内史検校も兼ねた。帝は高陽で子蓋を蕭何・寇恂になぞらえて労い光禄大夫・建安侯・女楽五十人を賜り「東都留守を越王に任せたのは皇枝磐石の証、社稷の大事は結局公に委ねる、持重を旨とせよ、玉麟符を新たに作り銅獣に代えよう」と述べ、越王・代王二孫の教育も委ねた。良田・甲第も賜った。

晩年と評

  • 十年、帝の東都帰還に際し「玄感の反は却って公の赤心を明らかにした」と済公に進爵させ、天下に例のない特別な封号とした。積翠池での宴では帝自ら金杯を子蓋に賜り「良算嘉謀は公の後の働きに応じてこの杯を用いよう」と述べた。
  • 十一年、雁門で帝が突厥に包囲された際、来護児とともに涙して「暫く遼東の役を止め衆望を慰めるべき、聖躬自ら親征を止め慰撫し、士気を高めれば憂うるに足らない」と諫め、帝はこれに従い後の援軍到着で虜は去った。納言蘇威が勲賞の重さを追論すると子蓋は失信すべきでないと執奏したが、帝に「公は物情を収めたいのか」と問われ黙して答えなかった。
  • 東都帰還後、絳郡の敬槃陀・柴保昌らの反乱討伐を命じられたが、子蓋は善悪の区別なく汾水北の村塢をことごとく焼いたため百姓は驚愕し却って多くが盗賊化した。降伏者も老若を問わず坑殺したため数万の兵を擁しながら年を越えても賊を破れず、召還されて宜陽の賊討伐に赴く途中病により停止、東京で没した。帝は久しく悲しみ、黄門侍郎裴矩に「子蓋は臨終に何を言ったか」と問うと「雁門の恥を深く恨んでいた」と答え、帝は嘆息して百官に弔問させ開府儀同三司を贈り諡は景とした。会葬は万余人に及び、武威の人吏もその死を聞き嗟痛して碑を立てた。
  • 子蓋は特別な権謀はなく軍中では持重を旨とし敗北を知らなかったが、任地では明察で下は欺けなかった。厳酷で恩情に乏しく殺戮を果断に行い、臨終の日には自らが斬った者たちの亡霊が幾重にも現れたと伝わる。