陳での武功
- 周羅碶は字を公佈、九江尋陽の人。父の法皓は梁の南康内史・臨蒸県侯。羅碶は十五歳で騎射・鷹狗を好み任俠放蕩で亡命者を集め兵書を密かに学んだ。従祖の景彦は「我が家は代々恭謹だがお前だけが放縦、身を滅ぼさぬなら我が一族を滅ぼすだろう」と戒めたが改めなかった。
- 陳に仕え句容令となり、大都督呉明徹の江陽戦で流矢に左目を射られた。斉軍が宿預で明徹を囲んだ際、諸軍が及び腰の中、羅碶は単騎で突進し敵を退け、太僕卿蕭摩訶を副えて多くの首級を挙げた。徐州進軍時、周将梁士彦との彭城の戦いで摩訶が落馬すると羅碶は重囲の中で救出し勇冠三軍と称された。明徹の敗戦でも羅碶は全軍を保って帰還、軍功で右軍将軍・始安県伯に進み、揚州中外諸軍事の検校を総括した。賜った金銀三千両は将士に分散し陳宣帝に大いに称賛された。晋陵太守から侯爵に進み、豫章十郡諸軍事都督・豫章内史として獄訟を自ら決し人々に慕われ碑が立てられた。
隋への帰服と最期
- 至徳中、南州諸軍事都督となったが、江州司馬呉世興が羅碶が人心を得て嶺表に擁兵していると密奏し陳主は疑ったが、蕭摩訶・魯広達らが弁護した。ある者が反乱を勧めたが羅碶は拒絶した。太子左術率として重用され、詩才を問われ「文士は武将より劣るのか」との陳主の問いに都官尚書孔範が「羅碶が筆を執り詩を作るのは馬に上がり陣に入るのと同じで人後に落ちない」と答えたという。
- 隋の陳討伐では巴峡沿江諸軍事都督として秦王俊に対抗した。陳主が捕らえられ上江がなお降らぬ中、晋王広が陳主の手書を送って命じると羅碶は諸将と三日大臨し兵を解いてから降った。文帝が富貴で慰諭すると羅碶は「本朝が滅んだ身に節を語る資格はない、陛下の賜物で身を全うできれば幸い、富貴栄禄は望むところではない」と涙した。文帝は器量を認め、賀若弼が「公が郢・漢で兵を執ると聞き揚州は落とせると知った」と言うと羅碶は「私と貴公が正面から戦えば勝負は分からない」と答えた。上儀同三司を拝命し鼓吹の礼で送られた。先に降った陳の裨将羊翔が向導となり羅碶より上位の開府に班したことを韓擒虎に「機変を知らず羊翔の下にいる」と揶揄されると、「かつて江南で公の高名を伺い天下の節士と聞いたが、今の言葉は臣下の論ではない」と応じ、擒虎は恥じ入った。幽州・涇州刺史を歴任し能名を得た。
- 開皇十八年、遼東征討の水軍総管として東萊から平壌を目指したが暴風で船が多く流失し功なく戻った。十九年、突厥達頭可汗の犯塞に楊素に従い先登して大破に貢献し大将軍に進んだ。仁壽元年、東宮右虞候率・義寧郡公を賜り右衛率に転じた。煬帝即位後、右武候大将軍として楊素の漢王諒討伐を副け上大将軍に進んだ。陳主の死に際し哭礼を願い出て許され、衰絰姿で墓まで送り喪服を脱いでから朝に入り、世は羅碶の礼を称えた。
- 諒の余党が絳・晋等三州でなお抵抗する中、行晋・絳・呂三州諸軍事として包囲したが流矢に当たり没した。柩を京師へ運ぶ途中、輿馬が理由なく止まり動かなくなったが、絳州長史郭雅が「公は小寇の未平を恨んでおられるのか、すでに平定されたので執着なさるな」と祝すると風が静まり馬が動いたという。同年七月、子の仲隠は羅碶が「明日戦う」と夢に現れるのを見、霊座の弓矢刀剣が独りでに動いたが、まさにその日に絳州城が陥落したという。柱国・右翊衛大将軍を贈られ諡は壮。子の仲安は上開府。