北史卷七十六 列傳第六十四 來護兒
南陽新野の人、字は崇善(?–618年)。漢の中郎将来歙の末裔で、陳から隋に仕えた将軍。江南の高智慧の乱平定、楊玄感の乱の鎮圧、遼東の役で武功を挙げ栄国公に進んだが、江都行幸を諫めて容れられず、宇文化及の政変で殺害された。
年表(12件)
- 開皇初宇文忻・宇文弼の広陵鎮守で厚遇され、大都督として本郷兵を領す
- 開皇九年陳平定の役で功を挙げ上開府に進む
- 開皇十一年高智慧の江南反乱を献策により大破し、閩中まで追撃して平定する
- 開皇十八年召還され、長子楷を千牛備身として留め本職に戻る
- 仁壽初瀛州刺史として善政で聞こえる
- 煬帝即位後召還され右驍衛大将軍となる
- 大業六年江都行幸で栄誉を受け先祖の墓参を許される
- 大業八年(遼東の役)平壌道行軍総管として高元弟建の敢死隊を破るも、宇文述らの敗退で撤退する
- 大業九年楊玄感の乱を聞き独断で回軍し、閿郷で玄感を破る
- 大業十一年高麗の奢卑等二城を破り平壌に迫るが、詔に従い還師する
- 大業十二年江都行幸に反対する諫言を行うが容れられず、以後は言わなくなる
- 大業十四年宇文化及の逆謀に際し捕らえられ害される
出自と武功
- 來護児は字を崇善、本は南陽新野の人、漢の中郎将来歙の十八世孫。曾祖の成は魏新野県侯であったが後に梁に帰し広陵に移住、六合令で終わった。祖の嶷は歩兵校尉・秦郡太守・長寧県侯、父の法敏は陳の海陵令で終わった。護児は物心つく前に父を失い世母の呉氏に育てられた。『詩経』の「撃鼓其鏜、踊躍用兵」「羔裘豹飾、孔武有力」を読んで書を伏せ「大丈夫たるものはこうあるべき、国のため賊を滅ぼして功名を立てるべきで、筆硯にのみ専念してはいられない」と嘆じ、周囲を驚かせた。
- 侯景の乱で世父が郷人の陶武子に害された恨みを、護児は数人の客と武子の宗族の婚礼に乗じて直入し武子を斬り、その首を伯父の墓に供えて一年余り身を潜めた。周軍の淮南平定後に郷里に帰り、住地の白土村が国境に近く常に軍旅を目にしたことから立功の志を強めた。開皇初、宇文忻・宇文弼が広陵鎮守の際に厚遇され、大都督として本郷兵を領し、陳将曾永を破って儀同三司を授かった。陳平定の役でも功を挙げ上開府・賞物一千段を得た。
高智慧の乱から遼東の役まで
- 開皇十一年、高智慧の江南反乱では楊素の指揮下、賊が浙江岸に周百余里の陣を構える中、護児は「呉人は鋭気を頼み舟楫を利とする、正面衝突は避け奇兵数千で密かに渡江し陣を襲えば韓信の趙攻略の策となる」と献策、素はこれを容れた。護児は軽舸数百で敵岸を襲い陣営を焼き、賊は動揺、素の一撃で大破した。智慧は海に逃れたが護児は閩中まで追い残党を平定、大将軍・泉州刺史・襄陽県公(食邑千戸)に進んだ。招懐と威恵を兼ね施し、璽書による労いも重なった。盛道延の乱・黟歙の汪文進の乱も平定し柱国・永寧郡公に進み、文帝は画工にその像を描かせた。開皇十八年、召還され宮女・宝刀・駿馬・錦彩を賜り、長子の楷を千牛備身として留め本職に戻された。
- 仁壽初、瀛州刺史として善政で聞こえ、煬帝即位後は召還され百姓が数百人も上書して引き留めを願うほどであった。帝は「昔は名将として国難を支え、今は良二千石として兼美である」と称え右驍衛大将軍とし、後に左に遷し光禄大夫・右翊衛大将軍・栄国公に進めた。大業六年、江都行幸で「衣錦昼行は古人も重んじたところ、卿は今それにあたる」と絹二千段・牛酒を賜り先祖の墓参と郷里の父老への宴を許し、三品以上の官に邸への集合を命じるほど栄えた。
- 遼東の役、平壤道行軍総管・東萊郡太守検校として楼船を率い浿水から平壤へ六十里に迫った。高麗主高元が全兵をもって迎えると諸将は懼れたが、護児は副将周法尚らに「堅城清野を待つと思っていたが自ら死にに来たようなもの、朝食までに殄滅しよう」と笑って言い、高元弟の建の敢死隊を武賁郎将費青奴と第六子の整に討ち取らせ、追撃して城下に迫り城外に陣を布いて諸軍を待ったが、宇文述らの軍が敗れたため撤退した。功により物五千段、子の弘を杜城府鷹揚郎将とし、先の襄陽公の封を子の整に譲った。
- 翌年、再び滄海道に出て東萊に次いだ際、楊玄感が洛陽を攻めていると聞き、周法尚らの反対(勅命なく擅に還るべきではない)を「洛陽包囲は心腹の疾、高麗の反抗は疥癬に過ぎない、公家の事は知りながら為さぬわけにいかない、専断は私が引き受ける、異を唱える者は軍法に処す」と押し切り即日回軍、子の弘・整を駅馬で報告に走らせた。帝は喜び弘に通議大夫、整に公路府鷹揚即将を授け、璽書で「公が軍を返した日は朕がそう命じた日と符節を合わせたように一致していた」と讃え、護児は宇文述とともに玄感を閿郷で破り平らげた。開府儀同三司・物五千段・黄金千両・奴婢百人を賜り、父の法敏に東陽郡太守・永寧県公を追贈した。
- 大業十一年、再び渡海し高麗の奢卑等二城を破り、高麗が総力で戦うも大破した。平壤に迫ると高元は震え叛臣斛斯政の身柄を差し出して降を請い、帝は許して護児に旋軍を詔した。護児は諸軍に「三度出兵して未だ賊を平げていない、今回還れば二度と来られない、高麗は困弊し野に青草もない、進んで平壤を囲み偽主を捕らえ献捷して帰りたい」と述べ、詔に従わず表を奉じて出征を請うたが、長史の崔君肅が固く争い「元帥に従い詔に背けば必ず上奏する」と諸将に告げたため諸将は懼れて還師を勧め、護児もついに詔を奉じた。帝が雁門で突厥に包囲され精騎で囲みを破ろうとした際は樊子蓋とともに固く諫めてこれを止めた。
江都への諫言と最期
- 大業十二年、江都行幸に際し護児は「皇家受命以来四十年、薄賦軽徭で戸口が増えたが、高麗との戦で百姓に怨嗟が生じ群盗が各地に集まっている、行幸は不適当、洛陽に留まり出師命将して群賊を掃討すべき、江都は臣にとり衣錦の地ではあるが、恩を重んじて敢えて申し上げる」と諫めた。帝は色を作して怒り数日会わなかったが、後に許して「公の意向がそうならば朕は何を望めばよいのか」と述べ、護児は以後言わなくなった。宇文述に代わり左翊衛大将軍となった。
- 宇文化及の逆謀の際、深く忌まれた護児は朝に赴く前に捕らえられ「陛下は今どこにおられるか」と問うと「既に捕らえられました」と答えられ、「私は大臣の位にありながら凶逆を粛清できず王室をこのようにしてしまった、抱恨泉壤、もはや何を言おう」と嘆じて害された。
- 護児は信義を重んじ交友に篤く財利に無欲、用兵には謀算に長け、兵法書を読むたびに「これも異人の考えではない」と語ったという。士卒の撫育に優れ部隊の統制も厳明で、皆その死力を尽くした。
- 子は十二人、楷は通議大夫、弘は金紫光禄大夫、整は左光禄大夫。整はことに驍勇で群盗討伐に赴くたびに勝ち、賊は「長白山頭百戦場、十十五五把長槍、不畏官軍千万衆、只怕栄公第六郎」と歌ったという。この時、護児一族は禍に遭い子姪十人が死んだが、少子の恒・済の二人のみ免れた。