生涯
- 元諧、河南洛陽の人。名門の出身。豪傑な気風と気概を持ち、若くして隋文帝と共に国子で学び深く親しかった。のち軍功で大将軍に累進。文帝が丞相となると側近に引き立てられた。諧は文帝に「公には党派がない、まるで水中に立つ一枚の壁のようで大変危うい、努めよ」と語った。文帝受禅後、諧を振り返り笑って「水中の壁は今どうなったか」と語った。上大将軍に進み楽安郡公に封じられ、律令の修訂に参与した。
- 吐谷渾の定城王鐘利旁が騎兵を率い渡河し党項と結んだ際、諧は兵を率い鄯州から出撃し青海に至り帰路を遮った。豊利山で遭遇し諧はこれを撃退、その太子可博汗も撃破した。名王十七人・公侯十三人がそれぞれ部下を率い降伏した。上柱国を拝命し一子に県公を別封された。諧は寧州刺史を拝命し威惠があった。しかし性格は剛愎で他人を排斥し、側近に媚びることができなかった。「私は一心に主に仕え、曲がって人の意に従わない」と述べると、文帝は「その言葉を終生守るように」と応じた。のち公事により免官された。
- 上柱国王誼が国に功があったが諧同様に無官で、互いに往来していた。胡僧が諧・誼の謀反を告発したが取り調べの結果無実で慰撫された。まもなく誼が誅されると諧はしだいに疎まれ猜疑された。しかし文帝が即位前からの旧知として朝請には常に加えられ恩礼に欠けはなかった。陳平定後の百官の大宴で諧は「陛下の威徳が遠くまで及んでいます、以前私は突厥の可汗を候正(門番)に、陳叔宝を令史にせよと申し上げましたが、今こそその案を用いるべきです」と進言、文帝は「朕が陳を平定したのは逆を除くためであり誇示するためではない、公の申し出は私の心にそぐわない、突厥は山川の地理を知らないのにどうして斥候を務められるのか、叔宝は酔いどれで何を使役できるのか」と応じ、諧は黙って退いた。
- 数年後、従弟の上開府滂・臨澤侯田鸞・上儀同祁緒らと謀反を企てたと告発する者があり、文帝は取り調べさせた。有司は「諧は祁緒に党項の兵を統率させ即座に巴蜀を断つ計画だった。当時広平王雄・左僕射高熲が権勢にあり、諧はこれを排除しようと『左執法の星が既に四年動いている、この状況を一度上奏すれば高熲は必ず死ぬ』と語り、また『太白が月を犯し光芒が照り合うのは大臣を殺す前兆、雄がこれに当たるだろう』と言った。諧は滂とともに文帝に謁見した際、密かに滂に『私こそ主人だ、殿上にいる者は賊だ』と語り、望気を命じると滂は『あちらの雲は蹲る犬や走る鹿のようだが、我らの方には福徳の相がある』と答えた」と奏上した。文帝は大いに怒り、諧・滂・鸞・緒はみな誅殺され家財は没収された。