北史卷七十三 列傳第六十一 虞慶則

虞慶則、京兆櫟陽の人、本姓は魚。北周に仕え石州総管などを歴任し稽胡を懐柔した。隋建国後は吏部尚書・尚書右僕射を歴任し、突厥の攝図(沙鉢略可汗)を服属させる交渉に当たり魯国公に封じられた。晩年、嶺南の李世賢の乱討伐に赴いたが、妻の弟趙什柱の讒言により謀反の疑いをかけられ誅殺された。

年表(5件)
  • 開皇元年内史監・吏部尚書・京兆尹を歴任し彭城郡公に封じられる
  • (開皇)二年元帥として突厥討伐に当たるが部署の失策で凍傷者を多く出す
  • (開皇)九年右纫大将軍に転じる
  • (開皇)十七年嶺南の李世賢の乱討伐に赴くが、部下の讒言により謀反の疑いをかけられ誅殺される
  • 大業九年子の虞孝仁が都水丞に転じ遼東遠征の運輸を監督する

生涯

  • 虞慶則、京兆櫟陽の人、本姓は魚。その先祖は赫連氏に仕え靈武に居を構え、代々北辺の豪傑だった。父の祥は北周の靈武太守。
  • 慶則は幼くして雄毅で豪放な性格、身の丈八尺、胆識に優れ鮮卑語も操り、重い鎧を身にまとい両側に弓を帯び左右に馳射する姿は本州の豪侠たちに敬服された。初め狩猟を生業としていたが後に節操を改め読書し、常に前漢の傅介子・班超(仲升)のような人物になることを慕った。北周に仕え中外府外兵参軍事、沁源県公を襲封。越王盛が稽胡を討ち平定した後、班師するにあたり内史下大夫高熲が盛と諮り文武の才略ある者に鎮撫を任せる必要があるとして慶則を推挙、石州総管を拝命した。威惠があり稽胡で慕って帰順する者が八千戸に及んだ。
  • 開皇元年、内史監・吏部尚書・京兆尹を歴任し彭城郡公に封じられ、新都建設の総監を務めた。二年、突厥の侵攻に際し元帥として討伐したが部署の配分が悪く士卒の多くが凍傷を負い指を失う者が千余人に及んだ。偏将達奚長儒が騎兵二千で別道から迎撃したが虜に包囲され、慶則は軍を留めたまま救援しなかった。このため長儒は孤軍で奮戦し死者は十のうち八九に及んだが、文帝はこれを咎めなかった。まもなく尚書右僕射に転じた。
  • のち突厥の主攝図が帰順を望み重臣一人の派遣を要請、詔で慶則が赴いた。攝図は強勢を恃み、慶則が過去の行いを責めても服さなかったが、副使の長孫晟がさらに説諭すると攝図とその弟葉護は詔を拝受し臣を称して朝貢し永く藩属することを願い出た。当初慶則が出使する際、文帝は「私は突厥を存立させたい、彼らが馬を贈っても三、五匹だけ受け取れ」と勅した。攝図は慶則に馬千匹を贈り娘まで娶らせたが、文帝は慶則の功が高いことから咎めなかった。上柱国を拝命し魯国公に封じられ任城県千戸の食封を得、彭城公の爵は次男の義に譲られた。
  • 陳平定後、文帝は晋王の邸宅に行幸し臣下と宴を催した。高熲らが盃を捧げ寿を祝すと、文帝は「高熲は江南を平定し、虞慶則は突厥を平定した、まさに大功だ」と述べた。楊素が「みな至尊の威徳によるものです」と応じると、慶則は「楊素が武牢・硤石で出兵したのも至尊の威徳がなければ勝てなかった」と言い返し、互いに功を張り合った。御史がこれを弾劾しようとすると文帝は「今日は功を数えて楽しむ日、弾劾は不要」と止めた。文帝が臣下の宴射を観る際、慶則が「臣は酒を賜り楽しんでおりますが、御史が側にいて酔いを弾劾されるのを恐れております」と進言、文帝は御史に酒を賜り退出させた。慶則は盃を捧げ寿を祝い大いに楽しんだ。文帝は諸公に「この酒を飲んで、私と諸君の子孫が今日のように末永く富貴を守れることを願う」と語った。九年、右纫大将軍に転じ、まもなく右武候大将軍に改まった。
  • 十七年、嶺南で李世賢が州に拠って反乱、討伐の議に諸将は二三人しか進んで出兵を願わず皆許されなかった。文帝は慶則を振り返り「宰相の位、上公の爵にありながら国家に賊がいるのに出兵の意欲を見せないのはなぜか」と問い、慶則は恐懼して謝罪し、文帝は出征を命じた。桂州道行軍総管となり妻の弟趙什柱を隨府長史とした。什柱は慶則の愛妾と密通し発覚を恐れ「慶則はこの遠征を望んでいない」と言いふらし、文帝の耳にも入った。これより先、朝臣が出征する際は文帝が必ず宴を催し餞別を賜ったが、慶則の南征の別れの際は文帝の顔色が優れず、慶則はこれを不満に思った。李世賢平定後、桂鎮に戻り山川の地勢を眺めて「まことに険固な地だ、しかも足がかりが十分だ、しかるべき人物が守れば攻め落とせないだろう」と語った。什柱はこれを馳せ京師に伝え文帝の様子を窺わせようとしたが、結局什柱は慶則が謀反を企てていると告発、文帝は調べさせ慶則を誅殺した。什柱は大将軍を拝命した。

虞孝仁――生涯

  • 慶則の子孝仁、幼くして任侠を好み豪放な性格で、儀同を拝命し晋王の親信を務めた。父の事件に連座して除名された。煬帝即位後、藩邸以来の旧臣として候纫長史を拝命、金谷監を兼ね禁苑を監督した。巧みな工夫を凝らし煬帝の意にかなった。大業九年、遼東遠征に際し都水丞に転じ運輸を監督し功があった。しかし性格は奢侈で、駱駝に水を張った容器を担がせ魚を養い自ら供した。のち不軌の行いを告発され誅された。