北史卷七十二 列傳第六十 牛弘
字は裏仁、安定鶉觚の人。北周・隋に仕えた学者官僚で、典籍の散逸を惜しみ献書を建議して隋の蔵書充実に貢献した。明堂制度や雅楽の音律をめぐる議論でも古制に通じた見識を示し、吏部尚書として徳行を重んじた人事登用で名声を得た。文帝・煬帝二代にわたり厚遇され、大業六年、江都行幸に従う途上で没した。
出自と献書の建議
- 牛弘、字裏仁、安定鶉觚の人。その先祖はかつて難を避け遼氏に改姓した。祖父熾は本郡の中正、父元は北魏侍中・工部尚書・臨涇公で、のち牛氏に復姓した。弘は襁褓の頃、人相見が「この子は貴くなる、よく育てなさい」と父に告げた。成長すると容貌は堂々とし性格は寛裕、学を好み博識だった。北周に仕え中外府記室・内史上士・納言上士を歴任、文翰を専掌し起居注を修めた。のち臨涇公を襲封、内史下大夫・儀同三司に転じた。開皇初年、散騎常侍・秘書監を拝命。弘は典籍の散逸を惜しみ、献書の道を開くよう上表した。
- 上表の趣旨は次のとおり。昔周の徳が衰えると旧来の経典は乱れ廃れたが、孔子が『礼』を制し『詩』を刊し『春秋』を修め『易』の十翼を弘めた。秦の始皇帝が天下を併呑すると先王の書はことごとく焼かれた、これが「書の一厄」である。漢が興ると蔵書の策を立て校書の官を置き、成帝の代には謁者陳農を遣わし天下の遺書を求め劉向父子に校訂させ漢の典籍は最盛期を迎えたが、王莽末の乱ですべて焼失した、これが「二厄」である。光武帝は経誥を重んじ、和帝は蘭台・石室・鴻都・東観に秘籍を積み前代の倍に達したが、献帝の遷都の混乱で図書は全て失われ西京の大乱で焼失した、これが「三厄」である。魏の文帝は経典を集め秘書郎鄭黙に整理させたが、晋の荀勖が『新簿』を著した後、劉曜・石勒の侵入で散逸した、これが「四厄」である。永嘉の乱以降、五経子史はわずか四千巻となり江左に伝わった。宋の王倹は『七志』、梁の阮孝緒は『七録』を編み、総数三万余巻に達したが、侯景の乱、さらに江陵で梁元帝蕭繹が集めた七万余巻を周の軍が郢に入った際に焼却させ、残ったのは十分の一二に過ぎなかった、これが「五厄」である。
- 北魏が洛陽に遷都してからは経籍が乏しく、北周も関右で創業したため軍事優先で書籍は保定初年にわずか八千巻、のち増補して一万巻に達した。北斉も山東で採訪したが残欠が多く、東夏平定後に獲得した経史四部は三万余巻に増えたが旧来の書はわずか五千巻に過ぎなかった。今隋朝に出す単本を合わせても一万五千余巻で、なお欠落が多く梁の旧目録の半分に過ぎない。陰陽・河洛の書や医方図譜の類はさらに少ない。
- 弘は「孔子の時代から今まで書は五度の厄を経てきたが、興集の好機は聖代に巡り合わせた。今の秘蔵の書もある程度読めるが、まだ十分ではない。王府にないものが民間にあることもある。詔を発し購賞を設ければ異なる典籍が集まり書庫は充実するだろう」と結んだ。
- 文帝はこれを納れ、書一巻の献上に絹一疋を賜る詔を下した。一二年のうちに書籍は次第に整い、弘は奇章公に進封された。
明堂建議
- 三年、礼部尚書を拝命し勅を奉じて『五礼』百巻を撰し当代に行われた。弘は古制に依り明堂を建てるべきと上議した。議の要旨は次の通り。明堂は神霊と交感し天地に感応し教化を布き有徳を崇める場であり、黄帝は「合宮」、堯は「五府」、舜は「総章」と呼んだ。『周官考工記』によれば夏后氏の代室は堂の奥行十四歩・広さ十七歩半(鄭玄注)、殷人の重屋は奥行七尋・広さ九尋、周人の明堂は五室で各室二筵という。馬融・王肅・干宝の注はこれと異なり、漢の司徒馬宮は夏の代室と周の明堂の大小関係について鄭玄と逆の説を立てるなど、諸説が入り乱れ久しく定説がない。鄭玄は宗廟・路寝・明堂は同制と注するが、その規模(一室一丈八尺四方)では祭祀や朝宴の実際の人数・儀礼を収めるには狭すぎるという矛盾がある。劉向の『別録』や馬宮・蔡邕らが見た『古文明堂礼』『王居明堂礼』『明堂図』などは既に散逸し正すすべがない。今伝わる『明堂月令』は鄭玄が呂不韋の著、蔡邕・王肅は周公の著と見るなど作者も未詳だが、虞・夏・殷の聖王の政を含む書と考えられる。蔡邕は明堂の各方位の名(東:青陽、南:明堂、西:総章、北:玄堂、中央:太室)、および方一百四十四尺(坤の策数)・屋の周径二百十六尺(乾の策数)などの数理的な制度を説く。
- 建安以後の戦乱で明堂造営は行われず、晋の裴頠は簡略な一殿のみを主張し、以後歴代もこれに倣った。北魏の平城では李沖の設計で九室構造としたが不完全に終わり、洛陽遷都後も改めて造営したが完成しなかった。
- 弘らは検討の結果、五室・上円下方・重屋・辟雍を備える形式を提案した。五室とすべき理由は『尚書帝命験』に「帝者は天を承け五府を立てる」とあり鄭玄も周の明堂と同じとすること、上円下方とすべき理由は『孝経援神契』『礼記盛徳篇』に基づくこと、重屋とすべき理由は『考工記』や『礼記明堂位』の記述、辟雍を設けるべき理由は『礼記盛徳篇』『明堂陰陽録』などに基づくとした。漢の中元二年に洛陽に建てられた明堂・辟雍・霊台の例も参照し、堂の規模は方百四十四尺・屋径二百十六尺・太室方六丈・通天屋径九丈などとし、殿垣の外側に幅三百歩の水路を巡らせる案を示した。
- 文帝は時事多忙を理由に造営を見送り、この案は実現しなかった。
音楽制度の議論
- 六年、太常卿を拝命。九年、雅楽制定の詔が下り、圓丘五帝の凱楽の選定など楽事を議した。弘は「十二律を旋相して宮とする」古制の意義を説き、蔡邕『明堂月令章句』の説(各月ごとに宮・商・角・徴・羽・変宮・変徴を割り当てる法)や揚雄・劉歆の説を引き、月ごとの律を用いなければ陰陽の秩序が乱れると主張、黄鐘一律のみを用いる現行のやり方を批判した。しかし文帝は「旋相して宮とする法は用いず、黄鐘一律のみでよい」と裁定した。
- 弘はまた京房が伝えたとされる六十律の説(『続漢書律曆志』所引)が漢代以来実際には運用できていなかったことを、後漢の史官が六十律を扱う技術を失った経緯とともに述べ、沈約『宋志』の「六十律は楽に用いられていない」との評も引いて、六十律の採用に反対した。
- さらに弘は、晋の荀勗が定めた十二笛の制度(正声・下徴の関係)を引き、現行の音楽が黄鐘の宮に対し林鐘の調を用いているのは荀勗の「下徴」の調であって「正声」ではないため理に合わず、改めるべきだと論じた。文帝はこの議を大いに善しとし、弘に姚察・許善心・何妥・虞世基らと新楽を正定させた。この後明堂設置の議も再燃し文帝は弘に故事を条上させ意見を尊重した。
楊素との交誼と儀礼制定
- 楊素は才を恃み朝臣を軽んじたが、弘に対してだけは常に態度を改めた。楊素が突厥討伐に出発する際、太常の弘に別れを告げに来たが、弘は中門まで見送っただけで、素が「大将の出征に来て見送りが近すぎるのでは」と言うと、弘は一礼して退いた。素は笑って「奇章公(弘)はまさに智恵は及ぶが愚かさは及ばぬ人物だ」と評したが、意に介さなかった。まもなく大将軍を拝命し吏部尚書に転じた。
- 文帝は弘に楊素・蘇威・薛道衡・許善心・虞世基・崔子発らと共に儒者を集め新礼の軽重の等級を論じさせ、弘の議論は皆の推服を得た。獻皇后が崩じた際、王公以下誰も儀注を定められない中、楊素は弘に「公は旧学の権威、今日の事は公の決定に任せる」と述べ、弘は辞退することなくたちまち儀注を整え、いずれも典拠を備えていた。素は「衣冠礼楽はすべてここに尽きている、私の及ぶところではない」と嘆じた。弘は三年の喪の祥禫(服喪の期間)の降殺について、期服十一月で練るという慣行に典拠がないことを文帝に上申、文帝は詔を下し期練の礼を廃止した。これは弘に始まる。
人事と晩年
- 弘は吏部で徳行を先とし才能を後とし審慎を旨とした。処理は遅滞したが登用された者は多く職に適した。吏部侍郎高孝基は人物鑑定に優れ清廉だったが軽薄と見られがちで多くの宰臣が疑っていたところ、弘だけは深くその真価を認め重用した。隋の選挙はこの時期が最も優れていたと評され、弘の識見の高さは世に知られた。
- 煬帝が東宮にあった頃、しばしば詩書を弘に贈り弘も応えた。即位後、煬帝は弘に「晋家の山吏部(山涛)、魏代の盧尚書(盧毓)に劣らぬ、学行は世俗に厚く道は虚静、納言として雲閣に列し、皇運の初めに礼儀を整えた」との詩を賜った。同時に詩を賜られた他の臣下と比べても弘への賞賛は際立っていた。大業二年、上大将軍に進み、三年、右光禄大夫に改まった。恒岳(山)への祭祀に随行し、壇の設営・珪幣・牲牢はすべて弘が定めた。太行山を下る際、煬帝は弘を内帳に召し皇后とともに同席で飲食させるほど親愛した。弘は子に「私は非常の待遇を受け深い恩を蒙っている、お前たちは誠敬を以て身を立て、この厚遇に応えねばならない」と語った。六年、江都行幸に従い没した。煬帝は深く惜しみ手厚く弔い、安定に帰葬され、開府儀同三司・光禄大夫・文安侯を追贈され諡は憲。
- 弘は当代随一の栄寵を受けながら車馬服飾は質素で、上に事えては礼を尽くし下には仁を以て接し、口下手だが行いに敏かった。文帝がかつて勅を宣べるよう命じたが、弘は階下で言葉に詰まり退いて謝罪し全て忘れたと述べた。文帝は「言葉を伝えるような小さな弁舌は宰臣の任ではない」と述べ、その実直さをますます評価した。煬帝の代にはさらに厚遇された。性格は寛厚で学問に篤く、職務が繁雑でも書物を手放さなかった。隋の旧臣で始終信任され後悔することがなかったのは弘一人だけだった。弟の弼は酒好きで酔って弘の乗る車の牛を射殺したことがあった。弘が帰宅すると妻が「叔(弼)が牛を射殺しました」と言い、弘は驚きもせず「肉にせよ」とだけ答えた。妻が重ねて「異常な出来事です」と言うと「もう知っている」とだけ答え顔色も変えず読書を続けた、その寛容ぶりはこの通りだった。文集十二巻が世に伝わる。
- 長子の方大も学識があり内史舎人を務めた。次子の方裕は凶険で仁心がなく、江都で裴虔通らと弑逆を謀った、その事は『司馬徳戡伝』に見える。