北史卷七十二 列傳第六十 高熲

渤海蓚の出を称した高熲(字昭玄、一名敏)。父賓の代に独孤信に見出され独孤氏を賜った家系に生まれ、北周の斉王憲に仕えたのち隋文帝の腹心として重用された。尉遅迥討伐で功をあげ、宰相(尚書左僕射・納言)として二十年近く政務を統括、対陳戦略の立案と伐陳の功により斉国公に封じられた。晩年は独孤皇后や太子勇廃立をめぐる軋轢から文帝の不興を買って失脚し、煬帝の代に誅殺された。

年表(2件)
  • 開皇二年長孫覧らの伐陳に際し諸軍の節度を命じられる
  • 開皇九年晋王広の伐陳軍で元帥長史となり陳平定に功を立て斉国公に進封される

出自と初期の経歴

  • 高熲、字昭玄、一名敏。自ら渤海蓚の人と称した。その先祖は北辺に官を得て遼左に没した。曾祖皓は太和年間に遼東から北魏に帰し衛尉卿に至った。祖父孝安は兗州刺史。父賓は東魏に仕え諫議大夫。大統六年、讒言を避け官を棄てて西魏に奔り、独孤信が僚佐に引き入れ独孤氏の姓を賜った。独孤信誅殺後、妻子は蜀に徙された。隋文献皇后(独孤氏)は賓が父の旧吏だった縁でその家と往来した。賓は政務に敏く果断だった。武陽県伯を賜り、斉公憲府長史・驃騎大将軍・開府儀同三司・襄州総管府司録を歴任し州で没した。熲が貴顕になると開皇年間、禮部尚書・武陽公を追贈され諡は簡。
  • 熲は幼くして明敏で器量があり文史に通じ言葉巧みだった。幼少期、家に高さ百尺ほどの柳の木があり、里の父老は「この家からは貴人が出るだろう」と評した。十七歳で周の斉王憲に記室として引き立てられ、父の武陽県伯の爵を襲い内史下大夫に累進、斉平定の功で開府を拝命した。
  • 隋文帝が政権を握ると、熲の強明さと兵事への習熟、多くの計略を知り味方に引き入れようとし、邗公楊惠を使者として意図を伝えた。熲は快諾し「馳駆の任を受けたい、たとえ事が成らなくても滅族も辞さない」と述べ、府司録となった。長史鄭訳・司馬劉昉は奢侈放縦のため疎まれ、文帝はますます熲に心を寄せ心腹として委ねた。尉遅迥の挙兵に際し文帝は韋孝寛に討伐させたが軍が河陽に至っても誰も先に進もうとせず、諸将の不一致から崔仲方に監軍を命じたが仲方は父が山東にいることを理由に辞退した。熲は劉昉・鄭訳らに行く意志がないのを見て自ら志願、文帝の意にかなった。命を受けるとすぐ出発し、母に「忠孝は両立できない」と別れを告げ涙して道に就いた。軍中で沁水に橋を架け、賊が上流から火筏を流すと熲はあらかじめ土狗(防御堤)を築いて防いだ。渡河後、橋を焼いて戦い大破した。凱旋後、臥室での宴に招かれ文帝は自らの御帷を熲に賜った。柱国に進み義寧県公に改封、丞相府司馬に転じ寄任はますます厚くなった。文帝受禅後、尚書左僕射・納言を拝命、渤海郡公に進封され、朝臣で並ぶ者はなく文帝は常に「独孤」と呼び名を呼ばなかった。熲は権勢を避けるふりをして辞任を上表し蘇威に譲ろうとしたが、文帝はその美名を成就させるため僕射の解任を許した。数日後文帝は「蘇威は前朝で高く評価されていたが、熲は善人を推挙できる、進んだ賢者に報いるべきなのに官を去らせてよいのか」と述べ熲を復位させた。まもなく左衛大将軍を拝命、本官はそのまま。突厥がしばしば辺境を犯すため熲に辺境の鎮撫を命じ、帰還後馬百匹・牛羊千頭を賜った。新都建設の大監を領し、制度の多くは熲から出た。熲はいつも朝堂の北の槐の木の下に座って政務を聴いたが、その木は並木の列から外れていたため有司が伐採しようとしたところ文帝は特に伐るなと命じ後世への手本とした。熲の重んじられ方はこの通りだった。さらに左領軍大将軍を拝命、他の官はそのまま。母の喪により離職したが二十日で職務に戻るよう命じられ、熲は涙を流し辞退したが許されなかった。

対陳戦略と伐陳の功

  • 開皇二年、長孫覧・元景山らが陳を伐つ際、熲に諸軍の節度を命じた。陳宣帝の崩御に際し熲は喪に乗じるのは礼に反するとして撤兵を奏請した。蕭巌の叛乱では熲に江漢の鎮撫を命じ大いに人心を得た。文帝が対陳戦略を問うと熲は「江北は寒冷で収穫が遅く、江南は温暖で早熟する。収穫期を見計らって少数の兵で威嚇し出撃の噂を流せば、敵は防備のため農時を失う。こちらが兵を集めては解くことを繰り返せば敵はこれを常態と思うようになり、油断したところで本当に渡河し士気の高いまま上陸戦を挑める。また江南は土地が薄く竹や茅葺きの家が多く貯蔵は地下窖にない。密偵を送り風に乗じて放火し、修復のたびにまた焼けば数年で財力は尽きる」と献策し、文帝はこれを採用、陳はますます疲弊した。
  • 九年、晋王広が陳征討の大軍を興すと熲は元帥長史となり三軍は全て熲の裁断を受けた。陳平定に際し晋王が陳後主の寵姫張麗華を側室に迎えようとしたが熲は「武王が殷を滅ぼした際、妲己を戮した。今陳を平定するのに麗華を取るべきでない」と述べ斬らせた。王は不満だったが、凱旋後熲は功により上柱国に進み斉国公に封じられ物九千段、千五百戸の食封を賜った。文帝は「公が陳を伐った後、公が謀反したという噂があったが私は既に讒言者を斬った、君臣の道が合致していれば青蠅(讒言)の入る隙はない」と労い、熲はまた辞任を願ったが優詔で許されなかった。

栄寵の頂点と讒言

  • この後、右衛将軍龐晃や将軍盧賁らが熲を文帝に讒言し、文帝は怒りこれらを疎んじ黜けた。文帝は熲に「独孤公(熲)はまさに鏡のようなもの、磨けば磨くほど明るくなる」と語った。まもなく尚書都事姜曄・楚州行参軍李君才が水旱不順の責任は熲にあるとして廃黜を求めたが、二人はかえって罪を得て去り、熲への親愛はますます深まった。文帝が并州に行幸した際、熲に留守を任せ、帰還後は縑五千匹と行宮一か所を邸宅として賜った。熲の妻賀抜氏が病に伏すと、宮中からの見舞いが絶えず、文帝自ら邸宅を訪れ銭百万・絹万匹・千里馬を賜った。文帝がくつろいだ場で熲と賀若弼に平陳の功を語らせると、熲は「賀若弼はまず十策を献じ、蒋山での苦戦で敵を破った。私は文吏に過ぎず、猛将と功を争えようか」と答え、文帝は大笑いし世論はその謙譲を称えた。まもなく熲の子表仁が太子勇の娘を娶り、前後の賞賜は計り知れなかった。
  • 熒惑(火星)が太微垣に入り左執法を犯した際、術者の劉暉が私かに熲に「天文は宰相に不利、徳を修めて禳うべき」と告げ、熲は不安になりこれを文帝に奏上、文帝は厚く慰めた。突厥が辺境を犯した際、熲を元帥として撃破させた。また白道に出て磧に入る作戦の際、援兵を求める使者に対し近臣が熲の謀反を讒言したが文帝は答えず、熲は賊を破って帰還した。

独孤皇后との軋轢

  • 太子勇が寵を失っていた頃、文帝は密かに廃立の意を抱き熲に「晋王妃には神告があり、王は必ず天下を得るという」と語ったが、熲は跪いて「長幼の序は廃してはならない」と答え、文帝はこれを止めた。独孤皇后は熲の意志が動かせないと知り密かに排除を図った。かつて熲の妻が没した際、皇后が文帝に「高僕射は老いて妻を失った、なぜ娶らせてやらないのか」と言い、文帝がこの言葉を熲に伝えると、熲は涙を流し「私はもう老い、退朝すれば仏経を読むのみ、陛下の深いお心遣いに感謝しますが再婚は望みません」と辞退し文帝はこれを止めた。この頃、熲の愛妾が男子を産んだことを文帝は大いに喜んだが、皇后は不満で「陛下はまた熲を信じるのですか。以前熲に娶らせようとした時、熲は愛妾がいることを隠し陛下を欺いていた、今その偽りが露見しました」と言い、文帝はこれにより熲を疎んじた。
  • 遼東征討の議で熲は固く反対したが文帝は聞かず、熲は元帥長史として漢王(諒)の遼東遠征に従い霖雨と疫病で不利のまま撤退した。皇后は文帝に「熲は初めから行きたがらなかった、陛下が強いたのです、私は最初から功が上がらないと分かっていました」と述べた。また文帝は諒が若年ゆえ軍を熲に専任させたが、熲は重責を担いながらも至公を旨とし私心を持たなかった。諒の意見の多くを採用しなかったため諒は熲を深く恨んだ。帰還後、諒は皇后に「熲に殺されずに済んだのは幸いでした」と泣いて訴え、文帝はますます熲を不快に思った。まもなく上柱国王積が罪で誅殺され、その取り調べの過程で禁中の秘事が熲の所から漏れたとされ、文帝はこれに大いに驚き熲の罪を成立させようとした。上柱国賀若弼・吳州総管宇文幹・刑部尚書薛冑・戸部尚書斛律孝卿・兵部尚書柳述らが熲の無実を弁護すると文帝はますます怒り彼らを全て収監、以後朝臣は誰も発言できなくなった。熲はついに罪に問われ免官され公のまま邸宅に留まった。

失脚と晩年

  • まもなく文帝が秦王俊の邸宅に行幸し熲を宴に召した。熲は涙を流し悲しみに堪えず、独孤皇后も対座して涙し、左右も皆涙を流した。文帝は「朕は公を裏切っていない、公が自ら朕を裏切ったのだ」と言い、侍臣に「私は高熲を我が子以上に思っていた、たとえ会わなくても常に目の前にいるようだった。彼が失脚してからは忘れ去り、まるで最初から高熲などいなかったかのようだ。身をもって君主に何かを要求してはならぬのに、彼は自分を第一と言い張った」と語った。まもなく熲の国令が熲の陰事を告発し「その子表仁が熲に『昔司馬懿は病と称して朝に出仕せず、ついに天下を得た。公も今の境遇に遭ったのは、あるいは福かもしれません』と言った」と述べた。文帝は大いに怒り熲を内史省に囚え取り調べた。憲司はさらに他事を奏上し「沙門真覚が熲に『来年国に大喪あり』と語り、尼の令暉も『十七、八年に皇帝に大厄あり、十九年は越えられない』と語った」とした。文帝はますます怒り、群臣に「帝王の位は力で求められるものではない。孔子ほどの大聖の才でも法を後代に垂れるのみで大位を望まなかったのは天命に非ずだからだ。熲が子とそのような話をし自らを晋帝に比したのはどういう心か」と述べた。有司は斬刑を求めたが文帝は「昨年虞慶則を殺し、今年王積を斬った、もし熲まで誅せば天下は私を何と思うか」と述べ除名に留めた。かつて熲が僕射だった頃、母が「お前は富貴を極めた、あとは斬首があるだけだ、慎め」と戒めていた。熲はこれ以来常に禍変を恐れており、今回熲は歓然として恨む様子もなく、禍を免れたと安堵した。
  • 煬帝即位後、太常卿を拝命。周・斉の旧楽人や天下の散楽を集める詔が出ると、熲は「この楽はもう久しく廃れている、今これを求めれば無知の徒が本を捨て末を追い、互いに教習しあうだけになる」と奏上したが煬帝は不快に思った。当時煬帝は奢侈にふけり声色に耽り、さらに長城の築造を興した。熲はこれを深く憂い、太常丞李懿に「周の天元帝は音楽を好んで滅んだ、殷の鑑を進めなければまた同じ道を辿る」と語った。煬帝が啓民可汗を過分に厚遇していた際、熲は太府卿何稠に「この虜(突厥)は中国の虚実や山川の険易をよく知っている、後患となるだろう」と語り、また観王雄には「近ごろ朝廷にはまるで綱紀がない」と語った。これを告発する者があり、煬帝は朝政を誹謗したとして熲を誅殺し、諸子は辺境に流された。
  • 熲は文武の大略があり政務に明達だった。任用されてからは誠心を尽くし忠節を守り、賢良を推挙することを自らの任とした。蘇威・楊素・賀若弼・韓擒虎らは皆熲の推薦で、それぞれの力量を発揮し一代の名臣となった。その他熲が功を立てさせた者は数え切れない。政権を執ること二十年近く、朝野は心服し異論はなく、その治世の安定は熲の力によるものだった。論者は真の宰相と評した。誅殺されると天下の人々は皆悲しみ、今もなお冤罪を訴える声が絶えない。熲が立てた奇策や良謀、時政への損益意見はすべて自ら草稿を削り、後世に知る者はいない。
  • 子の盛道は莒州刺史に至り柳城に流されて没した。盛道の弟弘徳は応国公に封じられ晋王記室、次弟表仁は渤海郡公で蜀郡に流された。