北史卷七十二 列傳第六十 李德林
字は公輔、博陵安平の人。北斉・北周・隋の三朝に仕えた文人官僚で、幼くして博学の才を知られた。隋建国に際しては丞相府の文書・律令の起草に功があり、内史令として詔策・箋表・璽書の多くを草した。晩年は邸宅の交換をめぐる訴えなどから文帝の不興を買い湖州刺史に左遷され、任地で没した。
出自と若年の才
- 李德林、字公輔、博陵安平の人。祖父寿は北魏の湖州戸曹従事。父敬族は太学博士・鎮遠将軍を歴任。北魏静帝の時、当代の博学者を集め文籍を整理させ内校書とし直閤省に置いた。徳林は幼少より聡敏で、数歳にして左思の『蜀都賦』を暗誦し十余日で習得した。高隆之はこれを見て驚嘆し朝士に「もし年月があればこの子は必ず天下の偉才となるだろう」と語り、鄴京の人々が競って邸を訪れ月余り車馬が絶えなかった。十五歳で『五経』や古今の文集を暗誦し一日数千言を記憶、まもなく典籍を博く極め陰陽緯候にも通じた。文章に長じ言葉は的確で理路整然としていた。魏収は高隆之に「あなたの子息の文筆は温子昇の後継となるだろう」と語り、隆之は大笑いして「魏常侍(魏収)はひどく人の才を妬む、なぜ自分(老彭=魏収の号)に近づけず遠く温子昇を引き合いに出すのか」と応じた。
- 十六歳で父の喪に遭い、自ら霊柩を駆って故郷に葬った。厳寒の中喪服のまま裸足で歩き、州里の人々はその孝行に敬服した。貧しさの中で母の病が多く典籍への専念を諦め出仕を望まなかったが、母の病が快方に向かうと出仕を促され、斉の任城王湝が定州刺史としてその才を重んじ州館に招き師友のように親しく交わった。のち秀才に推挙され尚書令楊遵彦は上第と評し殿中将軍を拝命した。長広王が丞相となると丞相府行参軍に引き立てられ、まもなく王が帝位に即くと中書舎人に累進し通直散騎侍郎を加えられ機密を扱った。まもなく母の喪に服し至孝で知られ、朝廷はこれを称えた。わずか百日で服喪半ばの出仕を命じられたが固辞し出仕しなかった。魏収と陽休之が『斉書』の起元をめぐって議論した際、百官が会議し、収と徳林は書簡を往復させたがその詳細は伝わらない。のち中書侍郎に転じ国史編纂の詔を受け、当時の斉の皇帝は文雅に心を寄せ徳林を文林館に召し、黄門侍郎顔之推と共に文林館事を判した。儀同三司に累進した。
北斉から北周へ
- 北周武帝が斉を平定すると、使者を邸宅に遣わし「斉平定の利益は全てお前にある、来て会いたい」と伝え、長安への行幸に従わせ内史上士を拝命、詔誥の格式と山東人材の登用を全て委ねた。周武帝は群臣に「私は日頃李徳林が斉のために書檄を書いていると聞き、彼は天上の人だと思っていた。今日彼を我が手足として使えるとは、文書を書かせるのは大変な喜びだ」と語った。神武公紇豆陵毅が答えて「聖王が麒麟や鳳凰を瑞として得るのは聖徳が感応するもので力で得られるものではありません。瑞獣は来ても実用に堪えませんが、李徳林が来て使役に応じたのは陛下の聖徳の感応であり、その大才の用は麒麟鳳凰より遥かに勝ります」と述べ、武帝は「まさに公の言う通りだ」と大笑いした。宣政末年、御正下大夫を拝命、成安県男を賜った。
隋建国の功
- 宣帝の崩御が迫った際、隋文帝が初めて顧命を受けると、邗国公楊惠を通じて徳林に「朝廷は文武の事を総べるよう命じた、公と共に成し遂げたい、必ず辞退しないでほしい」と伝えさせた。徳林は「死を以て公に仕えます」と答え、文帝は大いに喜び召して語った。劉昉・鄭訳が詔を偽って隋文帝を輔政に立て内外の兵馬事を統べさせ、訳は文帝を塚宰にしようとし自らは大司馬を、昉は小塚宰を兼ねようとしていた。徳林は密かに「大丞相となり黄鉞を仮し内外諸軍事を都督すべき」と進言、そこで訳は相府長史、昉は相府司馬とされ、二人はこれにより不和になった。徳林は相府属に任じられ儀同大将軍を加えられた。
- まもなく三方(尉遅迥・王謙・司馬消難)の乱が起こると軍略の指授はすべて徳林の参画によった。軍書や緊急文書が朝夕頻繁に届き、一日に百通に及ぶこともあった。緊急の際は口授で数人に同時に書かせても文意は整然とし添削の必要がなかった。鄖公韋孝寛が東道元帥として永橋に至り沁水の水位が高く渡河できずにいた際、長史李詢が「諸大将が尉遅迥の賄賂を受けた」と密かに上申、隋文帝はこれを憂い代将を検討した。徳林は「敵を前に将を代えるのは古来難事、楽毅が燕を去った例や馬服君の子が趙を敗った例がある。腹心の中で智略に優れ諸将から信頼される者を一人急ぎ現地に送り実情を見極めるべき」と述べ、文帝は「公がこの言葉を発しなければ大事を誤るところだった」と述べ、高熲を馳駆させ諸将を節度させ大功を成した。このような謀略は他にも多くあった。丞相府従事内郎に進み、隋の受禅に際しての相国総百揆・九錫の殊礼・詔策・箋表・璽書はすべて徳林の文であった。隋文帝受禅の日、内史令を拝命。禅譲に先立ち、虞慶則らが北周宇文氏の皆殺しを文帝に勧めたが徳林は強く反対、これにより文帝の不興を買い、品位は通例に留まり上儀同を拝命、爵は子に進んだのみだった。
晩年の不遇と死
- 開皇元年、太尉于翼・高熲らと律令の修訂を命じられ、完成後奏上すると駿馬と九環金帯を賜った。五年、丞相在職中の文翰の記録を命じられ五巻にまとめ『霸朝雑集』と称した。文帝は読了後翌朝徳林に「古来帝王の興隆には必ず異人の輔佐がある。昨夜『霸朝集』を読んで感応の理を知った、昨夜のうちに公に会えなかったことが悔やまれる」と語った。父に定州刺史・安平県公を追贈し諡は孝とした。文帝が鄴に行幸した際、徳林は病で従えず、勅書で召され、御筆で「伐陳の事も自ら相談するように」と注記された。高熲が入京した際、文帝は「徳林の病が重く行けないなら熲自ら邸に赴き方略を得よ」と命じ、この件は晋王広に委ねられた。
- かつて大象末年、文帝は反逆者王謙の邸宅を徳林に賜ったが、まもなく崔謙に改めて賜り、文帝は徳林に他の邸宅と荘園店舗を選ばせた。徳林は反逆者高阿那肱の国縣市店八十区を代替として受け取った。九年、車駕が晋陽に行幸した際、店の人々が「土地は元々庶民のもので高氏が強奪したものを内側に建物を造った」と訴え、文帝は徳林を責めた。徳林は反逆者の文簿の確認と交換の経緯の調査を求めたが文帝は聞き入れず、店は元の住人に返還された。これにより文帝は徳林を疎んじた。かつて徳林は父を「太尉諮議」と称して贈官を得たが、李元操らが密かに「徳林の父は校書で没したのに諮議と偽称した」と上奏、文帝はこれを深く恨んでいた。この頃さらに廷議で意に反したことから、文帝は徳林を叱責し「公は内史として機密を掌るのに近ごろ議に加わらないのは公が度量に欠けるからだ。私は孝を以て天下を治めようと五教を立てた。公は孝は天性ゆえ教える必要はないと言うが、それなら孔子の子孫も『孝経』を説く必要がないのか。また不当に店を取り父の官を偽った、私はこれに憤っていたが今まで発しなかった。今は公を一州に遣わすだけにする」と述べ、湖州刺史に左遷した。州で日照りに遭い民に井戸を掘らせ田を潤したが考課で貶められた。一年余りで任地で没した、六十一歳。大将軍・廉州刺史を追贈され諡は文。葬儀には羽林百人と鼓吹一部が下賜され、太牢の祭礼が行われた。
- 徳林は容姿が美しく話術に優れ器量が深く、当時の人々はその底を測りかねた。斉の任城王湝、趙彦深、魏収、陸卬らが大いに敬重した。徳林は幼くして父を失い字がなかったが、魏収が「識見と器量は必ず公輔(宰相)に至るだろう、私はこれを字としよう」と述べ「公輔」の字を贈った。出仕後は機密を扱う職にあり性格は慎密で「昔の人は温樹(宮中の樹木の種類)についてすら語らなかった、それが何ほどのことか」と語っていた。若くして才学で知られ、地位が高まるにつれ自任の傾向が強まり、争いを好む輩から譖毀を受けることが増えた。運よく王朝興隆に立ち会い佐命の功に参与しながら十余年間ついに位が上がらなかったのはこのためである。撰した文集は八十巻にまとめられたが乱世で多くを失い、現存するのは五十巻のみである。
- 子の百薬は博学多才で詞藻に優れた。大業末、建安郡丞を務めた。