経歴
- 字弘業,潁川潁陽の人。祖環,魏平涼郡守・安定郡公。父演,恒州刺史。褒は少くして志を持ち学を好んだが章句に拘らなかった。師がこれを怪しみ問うと「文字の間は常に教えを奉じますが,異同を論じるに至っては自らの好みに従わせてください」と答え,師はこれを奇とした。長じて経史を渉猟し深沈で遠略あり。魏室が喪乱に遭うと夏州に避難した。当時周文帝が刺史であり褒の名を聞き客礼で待遇した。賀抜岳が侯莫陳悦に害されると諸将は使者を遣わし周文を迎えようとし,周文が去留の計を問うと褒は「これは天の授けるところ,どうして疑うことがあろう」と答え周文はこれを納れた。周文が丞相となると録事参軍に引き入れられ侯呂陵氏の姓を賜る。大統初,行台左丞に遷り三水県伯を賜り丞相府従事中郎として淅・酈を鎮守。二年後,丞相府司馬に召還され侯に進爵。
- 北雍州刺史に出る。州は北山を帯び盗賊が多かった。褒は密かに調べると豪右の仕業であったが,あえて知らぬふりをし厚く礼遇して「刺史は書生あがりで盗を取り締まる術を知らない,卿らが分担して憂いを分かってほしい」と述べた。悪辣な少年で郷里の患いとなっていた者を悉く召し出し主帥に任じ地域を分担させ,盗みが発生し捕らえられなければ故意の見逃しとして罪に問うとした。任じられた者たちは皆恐れ「先の盗みは自分たちの仕業でした」と自白し,徒党の姓名や逃亡者の所在まで悉く語った。褒はその名簿を保管し,大きく州門に「自ら行盗を認める者は急ぎ出頭せよ,罪を免ぜよう。今月中に出頭しない者は身を晒し妻子を没収し,先に出頭した者への賞に充てる」と掲示した。旬日の内に盗賊は皆出頭し,褒が名簿と照合すると一つも違わず,皆その罪を赦し自新を許した。これにより群盗は跡を絶った。給事黄門侍郎に入り侍中に遷り都督・西涼州刺史を拝す。羌胡の風俗は貧弱を軽んじ豪富を尚ぶため,豪富の家は百姓を侵し隷属民のように扱い,貧者は日に削られ豪者はますます富んだ。褒は貧しい者を悉く募って兵士とし,その家の徭役を免除し,富者の財物を調達して貧者に振給した。西域の商貨が来るたびにまず貧者に優先して買わせた。これにより貧富はしだいに均され戸口は殷実となった。廃帝元年,会州刺史。のち驃騎大将軍・開府儀同三司,公に進爵,汾州刺史に累遷。
- これより先,斉の寇がしばしば入り人々は耕桑を廃していたが,前後の刺史は誰も防げなかった。褒が至ると折しも寇が来たが属県には下知しなかった。人々は備えがなかったため多くが抄掠された。斉人はこれに気づかれなかったことを喜び,州が兵を集めていなかったため追撃できまいと考え油断し営塁も築かなかった。褒はすでに精鋭を北山に伏せ険阻に分散配置し帰路を邀撃する準備をしていた。敵の油断に乗じ伏兵を放って撃ちその軍を悉く捕らえた。故事では捕虜は京師に送るのが定めであったが,褒はこれを機に「捕らえた賊は多くない,俘虜として辱めればかえってその怨みを増すだけだ。すべて放還し徳をもって怨みに報いたい」と上奏,詔によりこれが許された。以来抄兵はやや治まった。河州総管に遷り鳳州刺史に転じる。まもなく老齢を理由に致仕を請い詔許された。天和五年,少保を拝す。褒は三帝に仕え忠厚で知られた。武帝は深くこれを敬重し常に師道をもって遇し,入朝のたびに詔して座らせてから政事を論じた。卒,涇・岐・燕三州刺史を追贈,諡は貞。
- 子継伯が嗣ぐ。隋に仕え衛尉少卿に終わる。