北史卷七十 列傳第五十八 趙肅

経歴

  • 字慶壅,河南洛陽の人。代々河西に仕えた。沮渠氏滅亡後,曾祖武始は魏に帰し金城侯を賜る。祖興,中書博士。父申侯,秀才に挙げられ後軍府主簿。肅は早くから操行あり時に知られた。孝昌中,殿中侍御史より起家,左将軍・太中大夫に累遷。東魏天平初,新安郡守を除せられ任期満了後洛陽に還る。大統三年,独孤信の東討に際し肅は宗人を率いて嚮導となる。司州別駕を授かり糧儲を監督,軍用は不足しなかった。周文帝はこれを聞き人に「趙肅は洛陽の主人と言うべきだ」と語った。九年,華山郡事を行う。
  • 十三年,廷尉少卿を授かる。翌年正月,朝礼を行う際,封爵のない者は参列できなかった。肅は当時まだ茅土を得ておらず,左僕射長孫倹が周文にこれを請うと,周文は肅を召して「歳初の礼儀に卿を参列させないわけにいかない,どうして早く言わなかったのか」と述べ,肅に自ら封名を選ばせた。肅は「河清は太平の応であり,かねてより願うところです」と答え,清河県子に封じられた。十六年,廷尉卿を授かり征東将軍を加える。肅は長く司法官にあり,処断はすべて公正で情理にかなった。廉慎で生業を営まず,当時の人はこれを称えた。十七年,車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進位,乙弗氏の姓を賜る。これより先,周文は肅に法律の編纂を命じ,肅は積年苦心して心疾を発した。職を辞し家で卒した。子軌。