北史卷七十 列傳第五十八 趙軌

経歴

  • 少くして学を好み行いに検あり。周の蔡王が記室に招き,清苦で聞こえた。隋文帝受禅後,斉州別駕となり能吏として知られた。東の隣家に桑があり葚がその家に落ちると,軌は人を遣わし悉く拾わせ元の主に返させ諸子を戒めて「私はこれで名声を求めているのではなく,機織りに関わらない物であっても他人のものを侵したくないだけだ,お前たちはこれを戒めとせよ」と述べた。州にあっては考績が常に最上位であった。持節使者郃陽公梁子恭が上奏し,文帝は米帛を厚く賜り入朝させた。父老が見送る際,皆涙を拭いながら「別駕は在官中,水火すら百姓と共にせず,それゆえ杯酒をもって送ることもできません。公の清さは水のようです,どうか一杯の水を酌んで餞としてください」と言い,軌はこれを受けて飲んだ。京師に至ると牛弘とともに律令格式の撰定を命ぜられた。
  • 時に衛王爽が原州総管であり軌を司馬に招いた。夜行の際,その左右の馬が逃げて田に入り人の稲を食んだ。軌は馬を止めて夜明けを待ち禾の持ち主を訪ね賠償して去った。原州の人吏はこれを聞き皆行いを改めた。のち検校陝州刺史,恩恵深く,寿州総管長史に転ずる。芍陂には旧く五門堰があったが荒廃し通じていなかった。軌は吏人を励まし三十六門を新たに開き五千余頃を灌漑し人々はその利益を受けた。任期満了で帰郷し家で卒した。子弘安・弘智,ともに知られた。