北史卷六十九 列傳第五十七 楊舣
楊舣(字顯進)、正平高涼の人。孝武帝西遷後、東魏支配下の邵郡・正平郡などで挙兵し周文帝に呼応、辺境防衛で功を重ね建州・邵州刺史となったが、保定四年の洛陽包囲戦で油断し斉軍に敗れて降伏し、時論に卑しまれた。
経歴
- 字顯進,正平高涼の人。祖貴,父猛,ともに県令。舣は少くして豪侠,志気あり。魏孝昌中,爾朱栄が朝士を殺害した際,大司馬・城陽王元徽が難を逃れ舣に投じると,舣はこれを匿って免れさせた。孝荘帝が立つと徽は出仕し再び司馬となった。これにより舣は義烈をもって伏波将軍・給事中に抜擢された。元顥が洛陽に入ると孝荘帝は太行を北に渡り,爾朱栄が帝を奉じ南討する際,馬渚に至ると舣は船を用意し王師を渡した。顥平定後,肥如県伯に封じられ鎮遠将軍・歩兵校尉・行済北郡事を加える。都督・平東将軍・太中大夫に進む。
- 孝武帝の関中入りに従い侯に進爵,撫軍将軍・銀青光禄大夫を加える。東魏が鄴に遷都すると,周文はその動静を知ろうとし舣を密かに鄴に派遣し観察させた。使命に称ったとして通直散騎常侍・車騎将軍を授かる。稽胡が険を恃み服さずしばしば略奪を働くと,舣は兼黄門侍郎としてこれを慰撫した。舣は権略に優れ辺情をよく把握し酋長を誘導・教化し多くが款附し,樹を担いで投降する者もあった。時に弘農は東魏の守備下にあったが,舣は周文に従いこれを攻略した。しかし河以北はなお東魏に属していた。舣の父猛はかつて邵郡の白水令であり,舣はその豪右と知り合いであったため,微行で邵郡に赴き挙兵し朝廷に呼応することを請うた。周文はこれを許し舣は行った。土豪王覆憐らと密謀し挙事を相応させ,内外呼応して邵郡を陥し郡守程保及び県令四人を捕らえ斬った。衆議は舣を郡事の代行に推したが,舣は覆憐の助力による成功であるとして覆憐を邵郡守に表薦した。功により大行台左丞を授かり義徒を率いて経略を続けた。諜者を遣わし東魏の城堡を誘説すると,一ヶ月の内に正平・河北・南汾・二絳・建州・太甯等の諸城が相次いで内応を請い大軍はこれに乗じて攻略した。舣に正平郡事を行わせ左丞は元のまま。斉神武が沙苑で敗れその将韓軌・潘楽・可朱渾元らが殿軍となると,舣は兵を分けて要撃し殺傷は甚だ多かった。東雍州刺史司馬恭は舣の威声を恐れ城を棄てて逃走,舣はここに拠点を東雍州に移した。
- 周文は舣の謀略を評価し辺境の任に堪えるとして建州事を行うよう表薦した。時に建州は敵境に遠く入っていたが,舣の威恩は早くから著しく,通る所は多く糧食を携えて帰属した。建州に至る頃には衆はすでに一万に及んだ。東魏州刺史車折于洛が出兵して迎え撃つと舣はこれを撃破。またその行台斛律俱を州西で破り甲仗及び軍資を大いに獲得し義士に給した。これにより威名は大いに振るった。東魏は太保尉景を遣わし正平を陥落させ,さらに行台薛修義を斛律俱と合流させたため敵勢はやや盛んになった。舣は孤軍で援けなく腹背に敵を受けたため撤退を図ったが,義徒が背反することを恐れ,偽って周文の書を作り外から届いたように装い,すでに四道から軍を派遣して救援すると流布させた。また分けて士人・義酋に各自の部下を率い四方に出て略取させ軍費に充てさせた。舣は分遣を終えると夜中に邵郡へ撤退した。朝廷はその権略で軍を全うしたことを嘉し,建州刺史を授けた。時に東魏は正平を東雍州とし薛栄祖に鎮守させていた。まず奇兵を遣わし急いで汾橋を攻めさせると,栄祖は果たして城中の戦士を悉く出し汾橋で拒守した。その夜,舣は他道より渡り栄祖の城を襲って陥した。驃騎将軍に進む。邵郡の人が郡を挙げて叛くと郡守郭武安は脱出した。舣はまた兵を率いてこれを攻め回復した。正平郡守に転じる。また東魏の南絳郡を撃破しその郡守屈僧珍を捕虜とした。前後の功を録され郃陽県伯に封じられる。
- 芒山の戦いで,舣は標柏谷塢を攻略しそのまま鎮守した。大軍が不利になると舣もまた撤退した。東魏の将侯景が騎兵を率いて舣を追撃すると,舣は儀同韋法保と協力し戦いながら前進すると景はついに退いた。周文はこれを嘉し再び建州刺史を授け軍箱を鎮させた。舣は長く軍役に従事し父の葬儀を行えていなかったため遷葬を上表。詔により父に車騎大将軍・儀同三司・晋州刺史,母に夏陽県君を追贈し儀衛を給し,州里はこれを栄とした。斉神武が玉壁を包囲した際,別に侯景に斉子嶺へ向かわせると,舣は邵郡への侵入を恐れ騎兵を率いて防いだ。景は舣の到来を遠く聞き木を伐って六十余里も道を断ったが,それでも驚き安んじず遂に河陽へ退却した。舣がこれほど恐れられていた。十二年,大都督に進み晋・建二州諸軍事を加える。また蓼塢を攻破し東魏の将李顕を捕らえ儀同三司に進む。まもなく開府を加え再び邵郡を鎮守。十六年,大軍が東討する際,大行台尚書を授かり義衆を率い敵境に先駆けその四つの守備拠点を攻略した。時に斉軍が出撃しないため舣は召還された。華陽県侯に改封。また邵郡に邵州を置き舣を刺史とし所部の兵を率い鎮守させた。
- 保定四年,少師に遷る。その年,大軍が洛陽を包囲すると詔により舣は軹関に出撃。しかし舣は長く東境を鎮守すること二十余年,しばしば斉人と戦い常に勝利を得ていたため軽敵の心を懐くようになっていた。時に洛陽は未だ落ちておらず,舣は深く敵境に入りながら備えを設けなかった。斉人が急襲すると舣の軍は大破された。舣は軍が敗れたことにより斉に降伏した。舣がかつて立てた勲功には慷慨壮烈な志があったが,軍が敗れると虜に就いて苟も免れようとしたため,時論はこれを卑しんだ。朝廷はなおその功を録し罪とせず,その子に爵を襲わせた。
史論
申徽は局量深沈,経史をもってこれを文飾し,陸通は鑒悟明敏,温恭をもってこれを飾った。ともに早くより周文の恩顧を受け,提戟の効を宣べ披荊の功に与った。義は周旋に結ばれ恩は契闊に生じた。ついに端揆に入り籓を出て撫することとなった。識用によって名を成しただけでなく,旧誼を懐いたからでもある。陸逞は戎旅の際に文雅で知られ,境を出れば延誉の才を発揮し官にあっては従政の美を著した。顕要を歴任したのは決して偶然ではない。厙狄峙は和戎の功を建て,楊薦は関入りの策を成し,趙剛は凶狡を剪り,趙昶は氐・羌を懐服させ,王悅は侯景を見抜き,文表は突厥を諭した。あるいは明らかに先覚を称され,あるいは識をもって機を見た。その立功立事を観るに,皆一時の志力の士である。元定の敗亡は黄権の無路に同じく,楊舣の攻勝もまた兵破れて身囚われるに至った。功名は寥落し,まことに嘆かわしい。《易》に「師出づるに律をもってす,否臧なれば凶」とあり,《伝》に「不虞に備えざれば,もって師とすべからず」とある。これ舣を謂うものであろう。