北史卷六十八 列傳第五十六 韓禽

韓禽(字子通)、隋の名将。北周から仕え、平陳の役では先鋒として長江を渡り建康を陥落させ陳後主を捕らえる功を立てた。賀若弼と功を争ったが上柱国に進んだ。弟の僧壽・洪もともに武勇で知られた。

年表(3件)
  • 開皇初廬州総管に任じられ、平陳(陳討伐)の任を委ねられる
  • 開皇九年弟洪が平陳後に行軍総管を拝命する
  • 仁壽元年弟洪が突厥の達頭可汗を恒安で防ぎ重傷を負う

経歴(附:僧壽・洪)

  • 字子通。少くして慷慨,膽略で称された。容貌魁岸,雄傑の相あり。読書を好み経史百家をおおむね知悉。周文はこれを見て異とし諸子と交遊させた。軍功により儀同三司に累遷,新義郡公を襲爵。武帝の斉討伐の際,禽は説得により独孤永業を金墉城で降伏させた。范陽平定後,上儀同・永州刺史を加えられる。隋文帝が丞相の時,和州刺史に遷る。陳の将甄慶・任蛮奴・蕭摩訶らが声援し江北を頻繁に犯すが,禽は度々その鋭鋒を挫き陳人は気を失った。
  • 開皇初,文帝は密かに江南併呑の志を抱き,禽を廬州総管に任じ平陳の任を委ねた。大挙して陳を伐つに際し禽は先鋒。五百人を率い夜に川を渡り採石を襲うと守備兵は皆酔っておりこれを取った。姑熟に進撃,半日で陥落。新林に駐屯。江南の父老はかねてよりその威信を聞いており軍門に来謁する者昼夜絶えず,その将樊巡・魯世真・田瑞らが相次いで降伏。晋王(広)は行軍総管杜彦を遣わし禽と合軍。陳叔宝は領軍蔡征に朱雀航を守らせたが,禽の到来を聞き衆は恐れて潰走。任蛮奴は賀若弼に敗れ軍を捨て禽に降伏。禽は精騎で朱雀門に直入,陳人が戦おうとすると蛮奴が「老夫すら降ったのに諸君何を戦うのか」と諭し衆は皆逃散,ついに金陵を平定,陳主叔宝を捕らえた。賀若弼も功があったため晋王に詔して二公を称賛し,禽・弼に優詔を下した。京師に至ると弼と禽は御前で功を争った。弼は「臣は蔣山で死戦しその鋭卒を破りその驍将を捕らえ威武を震わせ陳国を平らげた,禽は戦わずして略取したのみ,どうして臣に比べられよう」と言い,禽は「本来明旨を奉じ臣と弼はともに偽都を取ることになっていたが,弼は勝手に期を先んじ賊に遭遇して戦い将士の死傷が甚だ多かった。臣は軽騎五百で兵を血に染めず金陵に直入し,任蛮奴を降し陳叔宝を捕らえ,その府庫を得てその巣穴を傾けた。弼は夕方になってようやく北掖門を叩き臣が関を開いて迎え入れた,これは罪を救うに暇なきほどで,どうして臣と比べられよう」と反論した。上は「二将ともに勲功に値する」とし上柱国に進位,物八千段を賜った。有司は禽が士卒を放縦し陳宮を淫汚させたことを弾劾,これにより国公と実封食邑を得られなかった。
  • 大軍出陣の際,上は有司に「亡国の財物,朕は一切府庫に入れず苑内に五垛を築き,悉く文武百官の大射で取らせる」と勅した。至って上は玄堂に御し,大いに奴婢貨賄を陳列し王公文武の七品以上及び武職領兵の都督以上,諸考使を集めて射させた。
  • これより先,江東の謡に「黄斑青驄馬,壽陽の涘より発し,来る時は冬の末,去る日は春風の始め」とあり皆その意味を知らなかった。禽の本名は禽武,平陳の際青驄馬に乗り往還の時節が歌と符合し,ここに至ってようやく悟られた。のち突厥が来朝した際,上は「汝は江南に陳国の天子がいたことを聞いたか」と問い,「聞いた」と答えると,上は左右に突厥を禽の前に引き出させ「これが陳国天子を捕らえた者だ」と言った。禽が厳しく振り返ると突厥は恐懼して仰ぎ見なかった。壽光県公に別封,実封千戸。行軍総管として金城に屯し胡寇に備え,のち涼州総管を拝す。
  • まもなく召還され京師に戻り恩礼殊に厚かった。ある時,禽の隣の母がその門下の儀衛の盛んなことを王者のようだと見て怪しみ問うと,中の人が「私は王を迎えに来た」と答え忽然と姿を消した。また重病の者が突然驚いて禽の家に走り込み「王に謁見したい」と言い,「何の王か」と問うと「閻羅王」と答えた。禽の子弟がこれを打とうとすると,禽は止めて「生きては上柱国,死しては閻羅王となる,それで十分だ」と言った。ほどなく病に伏して卒した。子世諤が嗣ぐ。
  • 世諤は倜儻驍捷,父の風あり。楊玄感の乱に将として起用され毎戦先登した。玄感敗れると吏に拘束された。時に帝は高陽にあり行在所に送られた。世諤は日々看守に酒肴を買わせて痛飲し「私はいずれ死ぬ身,酔わずしてどうするか」と揚言した。次第に守者に酒を勧め酔わせ,遂に逃亡して山賊に身を投じ,その後の消息は不明。
  • 禽の母を同じくする弟僧壽,字玄慶,また勇烈で知られた。周武帝の時,侍伯中旅下大夫。隋文帝が政を得ると韋孝寛に従い尉遅迥を平定,功により大将軍を授かり昌楽県公に封。開皇初,安州刺史。時に禽は廬州総管であったため朝廷は兄弟が同じく淮南にいることを望まず,熊・蔚二州刺史に転じ広陵郡公に進爵。行軍総管として突厥を鶏頭山で撃破。のち事に坐して免官,数年後,再び蔚州刺史を拝命し突厥はこれを深く憚った。のち検校霊州総管事。楊素に従い突厥を破り上柱国に進位,江都郡公に改封。
  • 煬帝即位後,新蔡郡公に封ぜられたが以後任用されなかった。大業五年,太原行幸に随行。時に京兆の達奚通の妾王氏が清歌に優れ朝臣が多く見に行き僧壽もこれに加わり除名に処された。まもなく復位を命ぜられ京師で卒。子孝基。
  • 僧壽の弟洪,字叔明。少くして驍勇,善騎射,膂力人に過ぐ。周に仕え軍功により大都督。隋文帝が丞相の時,韋孝寛に従い尉遅迥を破り上開府を加え甘棠県侯に封。帝受禅後,公に進爵。開皇九年,平陳後,行軍総管を授かる。陳平定後,晋王広が蔣山で大いに狩をした際,猛獣が囲みに入り皆恐れる中,洪は馬を馳せてこれを射殺し陳の諸将は見て感嘆した。王は大いに喜び縑百匹を賜った。まもなく功により柱国を加え蔣州刺史を拝し,のち廉州に転じる。
  • 突厥がたびたび辺患となると,朝廷は洪の驍勇を用い検校朔州総管事とし,のち代州総管を拝す。仁寿元年,突厥の達頭可汗が塞を犯すと,洪は蔚州刺史劉隆・大将軍李薬王を率いて拒む。恒安で虜に遭遇,衆寡敵せず,洪は四面で搏戦し重傷を負い将士は気力を失った。虜は全軍で包囲し矢は雨の如く降った。洪は偽って虜と和睦し包囲が緩んだ隙に囲みを破り脱出,死者は大半に及んだが虜の死者もその倍であった。洪と薬王は除名,劉隆は死罪に処された。煬帝の北巡で恒安に至り白骨が野に散らばるのを見て侍臣に問うと「かつて韓洪が虜と戦った所です」と答えた。帝は憐れんでこれを悼み遺骨を集めて葬らせ,五郡の沙門に斎供を設けさせ洪を隴西太守に任じた。
  • まもなく朱崖の王万昌が反乱を起こし,詔により洪がこれを平定。功により金紫光禄大夫を加え郡務はそのまま。まもなく万昌の弟仲通がまた反乱すると,また詔により洪がこれを平定。師を還したまもなく病を得て卒した。