経歴
- 字木蘭,河南東垣の人。祖景は孝文帝の時,赭陽郡守。雄は少くして敢勇,膂力人に絶し騎射に工み,将帥の材略あり。孝武帝西遷の際,雄は慷慨として立功の志を懐き,大統初,その属六十余人とともに洛西で挙兵,数日の内に千人に達し,河南行台楊琚と掎角をなした。東魏を抄掠するたび戦果を得た。東魏洛州刺史韓賢がこれを上聞すると,鄴は軍司慕容紹宗を派遣し賢と合勢して雄を討たせた。数十戦を経て雄の兵はほぼ尽き,兄と妻子は賢に捕らえられ処刑されようとしたが,賢は「雄が至れば全員赦す」と告げ,雄は賢の軍中に赴いた。すぐに賢に従い洛陽に戻り密かに賢の党を引き入れ襲撃を謀るが事が漏れ逃亡。弘農で周文に謁見し武陽県侯に封じられ,郷里に帰り再起を図る。義衆を招集し独孤信に従い洛陽入り。芒山の役では周文の命により隘道で斉神武を邀撃,神武は怒り三軍に雄を捕えるよう命じたが雄は包囲を突破して免れた。東徐州刺史を拝す。東魏雍州刺史郭叔略が境を接し辺患となっていたが,雄はこれを密かに図り十騎を率い夜にその境に入り道側に伏し,都督韓仕に東魏人の服を着せ河陽より西に投降するふりをさせ,略が出撃すると背後から射て斬首した。河南尹を拝し公に進爵。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中・河南邑中正に進む。周孝閔帝践祚後,新義郡公に進爵,宇文氏の姓を賜る。明帝二年,都督・中州刺史。雄は久しく辺境にあり敵の虚実を熟知し深く敵地に入ることを厭わなかった。前後45戦,勝敗はあったが雄の志気はますます盛んで東魏は深くこれを憚った。鎮にて卒,大将軍・五州諸軍事を追贈,諡は威。子禽が嗣ぐ。