経歴
- 容貌魁岸,腰囲十囲,風神爽抜,人傑の相あり。周において功により上儀同,長子県公に封。隋文帝受禅後,宜陽郡公に進封。高熲はその才を美として深く親しんだ。かつて熲に「我らは共に周の臣子,社稷が滅んだが如何」と語ったが,熲は深くこれを拒んだ。まもなく蘄州総管を授かり,平陳の役では舟師を率い蘄水より九江に赴く。功により柱国・荊州総管に進む。のち桂州の李光仕が反乱を起こすと,世積は行軍総管としてこれを討平,上柱国に進み大いに重んじられた。
- 世積は帝が猜忌に苛烈で功臣が多く罪を得るのを見て,以来酒に耽り執政と時事を語らないようにした。帝は酒疾があると見て宮内に留め医者に療養させたが,世積は病が癒えたと偽って初めて邸に戻った。遼東征伐の際,世積は漢王(諒)とともに行軍元帥となり,柳城に至り病を得て引き返す。涼州総管を拝し,騎士七百人がこれを護送した。
- まもなく,世積の親信であった安定の皇甫孝諧が罪を得て役人に追われ,世積のもとに逃れたが受け入れられず,これにより恨みを持った。孝諧はついに桂州に配流され総管令狐熙に仕えるが熙もまた礼遇せず窮乏した。そこで功を求めて上変し「世積はかつて道人に自らの貴相を占わせ,道人は『まさに国主となるべし』と言い,妻に対しては『夫人はまさに皇后となるべし』と言った。また涼州に赴く際,親しい者が『河西は天下の精兵の地,大事を図れる』と語ると,世積は『涼州は土地広く人稀,武を用いる国ではない』と答えた」と告発した。これにより世積は召還され取り調べられた。有司は「左衛大将軍元旻・右衛大将軍元胄・左僕射高熲は世積と交通し名馬の贈与を受けた」と奏上。世積はついに誅殺され元旻・元胄らは免官,孝諧は上大将軍を拝命した。