北史卷六十七 列傳第五十五 柳敏
柳敏(字白澤)、河東解縣の人。西魏・北周に仕え律令・礼制の編纂に携わり、禮部・小宗伯などを歴任した名臣。開皇元年に没した。
年表(2件)
- 建德以後(以後)572年長く病に伏し、武帝・宣帝がともに見舞う
- 開皇元年581年上大將軍・太子太保に進み、その年に没す
律令と礼制の名臣
- 河東解縣の人、晉の太常柳純の七世孫にあたる。父の柳懿は魏の車騎大將軍・儀同三司・汾州刺史。敏は九歳で父を失い、母に孝を尽くしたことで知られた。学問を好み経史や陰陽卜筮の術まで幅広く学んだ。二十歳前に員外散騎侍郎として仕官を始め、河東郡丞に累進した(朝議は敏が本邑の出身であることからこの任命を行った)。敏は郷里を統べる立場ながら公平に対処し評判が高かった。
- 周文帝が河東を克復した際、敏を見出し「今日は河東を得たことよりも、卿を得たことが嬉しい」と語ったといい、丞相府参軍事を拝命した。戶曹参軍に転じ記室を兼ね、四方の賓客の接待や吉凶の礼儀を監督する役も任された。蘇綽らとともに新制を修撰し朝廷の政典とした。禮部郎中に遷り武城縣子に封じられ帥都督を加え本郷の兵を統べた。まもなく大都督に進む。
- 母の喪に服する間、わずか旬日で鬢髪が半ば白くなったという。まもなく吏部郎中に起用されたが、痩せ衰えて杖を頼らねば立てないほどであった。周文帝はこれを見て感嘆し特別に手当を賜った。尉遲迥の蜀討伐では行軍司馬として軍の策謀を委ねられた。益州平定後、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み侍中を加え尚書に遷り宇文氏の姓を賜った。六官制の整備で禮部中大夫を拝命した。
- 周孝閔帝踐阼後、公爵に進爵。河東郡守に任じられたが、まもなく召還され禮部に復帰した。郢州刺史として出て評判は良く、帰任の際には夷夏の士人が敏の善政に感謝し酒肴や地方の産物を持って道で待ち構えたが、敏は別の道から帰ったという。再び禮部を拝命し、後に禮部は司宗と改称され敏がこれを務めた。敏は身持ちが正しく勤勉な性格で、朝廷に出仕する日は必ず早く起きて夜明けを待った。長く台閣に勤め故事に精通し、旧典に合わない近ごろの慣習は旧章に照らして是正した。
- 小宗伯に遷り国史の監修を兼ね、小司馬に転じ律令の監修も兼ねた。大將軍に進み鄜州刺史として出たが病により赴任しなかった。武帝の齊平定後、武德郡公に進爵。敏は建德以後(572年以後)長く病に伏し、武帝・宣帝はともに自ら邸宅に見舞いに訪れた。開皇元年(581年)上大將軍・太子太保に進み、その年に没した。五州諸軍事・晉州刺史を追贈された。臨終に際し子らに喪事は簡素を旨とするよう戒め、子らは涙を流しながらこれを守った。少子の柳昂。
柳昂(子・昂)・柳調――柳敏の子孫
- 昂は字を千里といい、幼くして聡穎で見識・器量があり人並み外れていた。周武帝の時、内史中大夫・開府儀同三司を拝命し文城郡公を賜り、要職にあって百官はみなその下に立った。昂は誠意を尽くして政に献策し、知っては行わぬことなく、しかも謙虚で驕らなかったため、時論に重んじられた。武帝崩御に際し遺詔を受けて政を輔け、まもなく宣帝に疎まれたが本職は失わなかった。隋文帝が丞相となると深く結びつき、文帝は昂を大宗伯とした。しかし拝命の日に中風にかかり職務が執れなくなった。文帝受禅後に快復すると上開府を加えられ潞州刺史を拝命。昂は天下が無事なのを見て学問の奨励と礼制の実施を上表し、上はこれを喜び優詔で応え、以後天下の州県はみな博士を置き礼を学ばせるようになった。昂は在任中善政を挙げ、任地で没した。
- 子の柳調は秘書郎・侍御史を歴任した。左僕射楊素が朝堂で調を見かけ「柳の枝は柔らかいものだ、独り揺れて風を待たずとも」と独り言のように評すると、調は笏を正して「調に取り柄がなければ、公は私を侍御史に任じないはず、もし取り柄があるとすれば、そのような言葉は不適切です」と正色して返した。楊素はこれに感心したという。煬帝踐位後、尚書左司郎中に累進。当時朝綱が緩み朝臣の多くが賄賂を受け取る中、調だけは清廉さを保ち世に称賛されたが、実務能力の面ではそれほど長けていなかったという。