北史卷六十七 列傳第五十五 唐永
唐永、北海平壽の人。北地太守として長年賊軍を防ぎ「唐将」と恐れられた良将。子の唐陵・唐瑾も文武で活躍し、瑾は周文帝に重用され「六俊」の一人に数えられた。
年表(3件)
- 大統元年535年東雍州刺史を拝命する
- 天和初め(頃)566年孫の唐令則が齊馭下大夫として陳へ使いする
- 大象中(579-)580年孫の唐悟が内史下大夫・漢陽公に至る
北地の名将と文臣
- 唐永は北海平壽の人。もとは晉昌の憤安縣に住んでいたが、晉の乱で丹楊に移った。祖父の唐揣は初めて魏に仕え北海太守に至り、そのまま定住した。父の唐倫は青州刺史。永は身長八尺、若くして実直で将帥の才があり、『後漢書』の班超伝を読んで慷慨し万里の志を抱いたという。
- 正光中、北地太守・当郡別將を務めた。まもなく賊将宿勤明達・車金雀らが郡境を侵すと永は撃破し境内は落ち着いた。永は部下の統率に長け士人はこぞってその指揮に従った。北地にいた四年間、賊と数十回戦って一度も敗れることがなかったといい、時人は「陸に横暴な者はいなくとも、唐将(永)に遭えば恐れよ」と語ったという。永が陣を構えた場所は今も「唐公壘」と呼ばれる。
- 行台蕭寶夤は永を南幽州刺史に推挙し、夷人の見送りは涙にくれ道を遮って引き留め、数日を経てようやく出立できたという。大統元年(535年)東雍州刺史を拝命、まもなく衛將軍を加えられ平壽伯に封じられた。没し司空公を追贈された。永は清廉な性格で財産を蓄えず、妻子も飢えや寒さを免れなかったといい、世人はこれを称えた。
- 子の唐陵は若くして武芸を修め吏務にも通じ、大都督・應州刺史・車騎大將軍・儀同三司に至った。陵の子唐悟は容姿風格に優れ経史を博く渉猟し詩文の才もあった。周の大象中(579-580年)宣帝に重用され内史下大夫・漢陽公に至ったが、隋文帝が政権を取ると官を廃されて自宅で没した。陵の弟が唐瑾。
- 唐瑾は字を附璘といい、温恭な性格で器量があり、経史を博く渉猟し文章を好んだ。身長八尺二寸、容貌堂々としていた。十七歳のとき周文帝がその名を聞き、父の永に「公に二人の子、陵と瑾がいると聞く、陵は縦横の武略、瑾は雍容たる文雅、二人とも朝廷に送ってほしい、文武の任を委ねたい」と書を送り、瑾は尚書員外郎・相府記室参軍事を拝命した。軍書や急使の檄文の多くは瑾が担当した。沙苑・河橋の戦いに従い功を立て姑臧縣子に封じられた。
- 魏室が流転する草創期にあって朝廷の制度・国典の多くに瑾が関与した。戶部尚書に遷り驃騎大將軍・開府儀同三司に進み宇文氏の姓を賜った。
- 燕公於謹は勲功高く朝野の信望を集めていたが、周文帝に「瑾は学識と品行を兼ね備えている、同姓を賜って兄弟の契りを結び、子孫がその余慶を受け継げるようにしたい」と申し出た。周文帝はこれに深く感嘆し、瑾にさらに萬紐於氏の姓を賜った。於謹は瑾を深く迎え入れ長幼の礼を尽くし、瑾も子孫を連ねて弟侄の礼をもって接した。臨淄縣伯に進爵。吏部尚書に転じ人材登用の見識に優れていた。父の喪により去職したがまもなく復職した。
- 当時、六人の尚書はいずれも一時の俊才で周文帝は自ら人材を得たと語り「六俊」と呼んだが、その中でも瑾は特に重んじられた。於謹の江陵南征に元帥府長史として従い、軍中の謀略の多くは瑾から出た。江陵平定後、士大夫や仕官の家族は皆奴隷に落とされたが、瑾は才行に見るべき者があれば免除するよう議し、瑾のおかげで救われた者は多かった。時論はこれを称えた。
- 軍が戻る際、諸将の多くが戦利品で財を成す中、瑾だけは何も持ち帰らず、書物を積んだ車二台だけを持ち帰った。ある人が周文帝に「唐瑾は大量の梁朝の珍玩を輜重として持ち帰った」と告げたが、周文帝は最初は信じず、真偽を確かめるべく密かに検分させたところ書物だけであったため「私は彼を知って二十年になるが、利で義を損なわぬ人だと分かっている、もし検分させなければ、常人のように疑いを抱かせるところであった、人に信を委ねるとはこういうことだ」と嘆じたという。江陵平定の功により公爵に進んだ。
- 六官制の整備後、禮部中大夫を拝命。蔡州刺史として出て拓州・硤州も歴任し、いずれも善政を挙げ吏民に称えられた。荊州総管府長史に転じ、入朝して吏部中大夫を拝命、禦正・納言・内史中大夫を歴任した。十旬(百日)にも満たない間に四つの職を遷ったことは、多くの士大夫の羨望を集めた。司宗中大夫を拝命し内史を兼ねたが、まもなく在職のまま没した。小宗伯を追贈され諡は方。
- 瑾は方正で品格があり、退朝しての休暇中も常に衣冠を正して妻子に接し、急な雷雨があれば夜中でも起き出して冠帯を正し端座した。また施しを好み家に余財を残さず、得た俸禄や賜物は常に一族に分け与え、特に貧しい者には自ら肥沃な田宅を割いて助けた。子孫に残したのはやせた土地だけであったといい、朝野はこれを称えた。『新儀』十篇を著し、賦・頌・碑・誄など二十余万言の著作を残した。孫の唐大智が跡を継いだ。
- 瑾の次子唐令則は文章を好み音律にも通じ、その文章は華美で当時の人々に伝わった。天和初め(566年頃)齊馭下大夫として陳へ使いした。大象中(579-580年)樂部下大夫に至った。隋に仕えて太子左庶子となったが、皇太子楊勇の廃立に伴い誅殺された。