北史卷六十五 列傳第五十三 梁椿

勲功と人柄

  • 梁椿は字を千年といい、代の人。爾朱榮に従い洛陽に入り、賀拔岳の万俟醜奴討伐にも従い、さらに周文帝の侯莫陳悅平定にも従った。大統中、戦功により東平郡公に累封され開府儀同三司を拝命。周孝閔帝踐祚後、華州刺史に任じ清陵郡公に改封。保定元年(561年)大將軍を拝命し任地で没した。都督・恆州刺史を追贈され諡は烈。椿は果断な性格で撫御に長け、獲得した賞物は部下に分け与えたため戦場で必ず死力を尽くさせた。質素倹約を好み財産を殖やすことに関心を持たなかったため、当時称賛された。子の梁明は椿の功により豐陽縣公を賜り、椿の爵位を襲うと旧封は弟の梁朗に回授された。
  • 梁台は字を洛都といい、萇池の人。若くして果敢で志操があった。爾朱天光の関・隴平定に従い隴城鄉男を賜り、天光が韓陵で敗れると賀拔岳に心腹として招かれた。岳が侯莫陳悅に害されると台は諸将とともに周文帝擁立を謀り、悅の平定に功を立て潁州刺史となり賀蘭氏の姓を賜った。驃騎大將軍・開府儀同・侍中に累進。周孝閔帝踐祚後、中部縣公に進爵。保定四年(564年)大將軍を拝命。大軍が洛陽を包囲して久しく落ちない中、齊の騎兵が急襲し齊公宇文憲がこれを防いだが、数人が敵に捕らわれ連れ去られようとした際、台が単騎で突入し二人を射殺して敵を退けさせ、捕らわれた者を救った。齊公憲は「梁台の果断な胆力には及ばない」と繰り返し称賛した。保定五年(565年)鄜州刺史。台は寛容な性格で人を寛大に扱い、民を統べる際も恩愛を心がけた。千余字しか知らなかったが口述の書状は見事な文才を示した。六十歳を過ぎても甲を着けて馬に乗り、鐙を使わずに疾走して狩猟し矢を外すことがなかったという。後に病で没した。