北史卷六十五 列傳第五十三 田弘

字は廣略、高平の人。周文帝の腹心の武将で、蜀平定後の反乱鎮圧などで数々の戦傷を負いながら功を重ね柱国大將軍・少保に至った。子の仁恭は隋の上柱国・太子太師となり、孫の德懋も孝行と実直さで知られた。

年表(4件)

歴戦の勇士と子孫

  • 字は廣略、高平の人。若くして気概と謀略に富んだ。初めは万俟醜奴の支配下にあったが、爾朱天光の関中入りに際し原州から周文帝に帰順した。周文帝が兵を統率するようになると弘は謁見を願い出て時事を論じ、爪牙の任(腹心の武将)に任じられた。孝武帝を迎えた功により鶉陰縣子に封じられた。
  • 周文帝は自ら着ていた鉄甲を弘に賜り「天下が定まったら、またこの甲を私に見せてくれ」と述べたという。功を重ねて紇幹氏の姓を賜り原州刺史を拝命した(弘の勲望が高いことから錦を着せるように顕彰された)。周文帝が同州にいたころ文武百官を集めて「誰もが弘のように尽力すれば天下はとうに定まっていただろう」と述べ、車騎大將軍・儀同三司を授けた。魏廢帝元年(552年)驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。
  • 蜀の平定後、梁の信州刺史蕭韶らがなお帰順しなかったため詔により弘が討平した。さらに西平の反羌や鳳州の叛氐も討伐しいずれも破った。戦陣に臨むたび先頭に立ち、身に百余の矢を受け骨に達したものが九か所、乗馬も十度槊を受けたという。朝廷はその勇猛さを称えた。
  • 周孝閔帝踐祚後、雁門郡公に進爵。保定元年(561年)岷州刺史として出た。武将でありながら常に法度に則って行動し、民は安んじてこれに頼った。保定三年(563年)隨公楊忠の齊討伐に従い大將軍を拝命。その後柱国大將軍に進み、大司空・少保・襄州総管を歴任し、任地で没した。子の田仁恭が跡を継いだ。

田仁恭・田德懋――子孫

  • 田仁恭は字を長貴といい、寛仁な性格で度量があった。幽州総管を歴任。隋文帝受禅後、上柱国に進み太子太師を拝命し深く親任された。上が自邸に行幸して宴を開き、礼賜を厚く受けたこともあった。太廟造営を命じられ観国公に進爵、右武衛大將軍を拝命し左武衛大將軍に転じた。任地で没し司空を追贈され諡は敬。子の田世師が跡を継いだ。
  • 次子の田德懋は若くして孝行と友愛で知られた。開皇の初め、父の軍功により平原郡公を賜り太子千牛備身を拝命。父の喪に服して痩せ衰え、墓のそばに廬を結んで土を負って墳を築いた。帝はこれを聞いて嘉し、員外散騎侍郎元志を遣わして弔問させ、さらに璽書を下して見舞い帛と米を賜り、詔を下してその門閭を表彰した。大業中、尚書駕部郎の任地で没した。
  • 当時、玉城郡公王景・鮮虞縣公謝慶恩がともに上柱国、大義公辛遵とその弟辛韶がともに柱国の位にあった。隋文帝は彼らを佐命の功臣として特に重んじ田仁恭らと同様に礼遇したが、その事跡の多くは失われて伝わっていないという。

史論

  • 周文帝は喪乱の後を承け戦乱の余勢を駆って平涼で興り、関右を鎮撫した。外患は激しく内難も盛んで、緊急の檄文が飛び交い軍が幾度も出動する中、ついに逆賊を平らげ大業の基礎を固めることができた。それは廟堂の計略もさることながら、実際には将帥たちの働きによるところが大きい。
  • 達奚武・若干惠・怡峰・劉亮・王德・赫連達・韓果・蔡祐・常善・辛威・厙狄昌・梁椿・梁台・田弘らは、いずれも勇略を兼ね備え時運に乗じ、あるいは中枢で功を挙げ、あるいは一方面で功を立て、休戚をともにし艱難をともに乗り越えた、国の爪牙・朝廷の守り手というべき人々である。
  • 達奚武は文の策謀にも通じ小関で功を立てたことは、周瑜の赤壁の謀や賈詡の烏巣の策にも劣らず、まさに一言で国を興したと言える。若干惠・王德はもともと果断さで知られながら孝道を実践しており、史書に讃えられる古人にも劣らない。「勇者に必ずしも仁があるとは限らない」という言葉は当てはまらない例である。
  • 赫連達の先見の明に仁恕を加えた点、蔡祐の勇敢さに謙譲を加えた点は、及ぼうとして及べるものではなく、天性によるものであろう。田仁恭が内外で栄達したのも当然のことであり、田德懋の徳行も天の道理にかなうものとして称賛に値する。