義に厚い名将
- 字は朔周、盛樂の人で、五胡十六国の夏(勃勃)の後裔。曾祖の赫連庫多汗は難を避けて杜氏に改姓した。達は剛直で胆力があり、若くして賀拔岳の征討に従い功により長廣鄉男を賜った。
- 岳が侯莫陳悅に害されると、趙貴が周文帝擁立を提案し、達もこれに賛成して自ら軽騎で周文帝への使者を志願した。諸将の中には賀拔勝を南へ追うべきとか朝廷に東の状況を告げるべきとかいう意見もあったが、達は「それらはいずれも遠水で近火を救えぬようなもの」と一蹴し、方針は定まって達が馳せ向かった。
- 周文帝は達に会うと慟哭し、数百騎で平涼に南下する際、達に彈箏峽の確保を命じた。恐れて逃げ惑う民衆を軍が略奪しようとする中、達がこれを止めて恩信で懐柔すると人々は喜んで従い、周文帝はこれを称賛して平東將軍を加えた。周文帝は諸将に「清水公(岳)が禍に遭った日、諸君の命は賊の手にあったが、杜朔周(達)は万死を冒して駆けつけ、共に恥をすすげた。労に報いねば善を勧められない」と述べ馬二百匹を賜った。
- 孝武帝の入関に際し勲功を録され、達は元帥(周文帝)を最初に迎えた功で魏昌縣伯に進爵。儀同李虎に従い曹泥を破り、弘農奪還・沙苑の戦いでも功を立てた。赫連の姓を回復するよう詔された。功と名望が兼ね備わったため雲州刺史に任じられ公爵に進んだ。
- 大將軍達奚武の漢中攻略に従軍した際、梁の宜豐侯蕭修が長く抵抗した後に降伏を申し出た。開府賀蘭願德らは兵糧が尽きているとみて急襲を主張したが、達は「戦わずして城を得るのが上策、女子や財貨を貪ることは仁者のすることではない。窮鼠が猫を噛むような事態になれば勝敗は分からなくなる」と述べ、武は蕭修の降伏を受け入れた。凱旋後、驃騎大將軍・開府儀同三司に遷り侍中を加えられ藍田縣公に進爵。保定初め(561年)大將軍・夏州総管となった。
- 達は文吏ではなかったが実直な性格で法度を守り、鞭打ちは軽くとも死罪には慎重であった。また廉潔で、辺境の胡人が羊を贈ってきた際、異民族を懐柔しようと絹帛で返礼しようとしたところ、主司が官の物を使うよう求めたが、達は「羊が私の厨に入り、返礼の品が官庫から出るなら、それは上を欺くことになる」と述べ私財の帛を与えた。識者はその仁恕を称えた。まもなく樂川郡公に進爵し柱国を拝命した。没した。子の赫連遷が跡を継ぎ大將軍・蒲州刺史となった。