北史卷六十五 列傳第五十三 王德

清廉な将

  • 字は天恩、代の武川の人。若くして騎射に長じ、師に就いた学問こそなかったが孝悌で知られた。初め爾朱榮に従い元顥討伐に参加し同官縣子を賜った。さらに賀拔岳の万俟醜奴討伐に従い深澤縣男に別封された。
  • 侯莫陳悅が岳を害すると德は寇洛らと議して周文帝を擁立し、平涼郡守に任じられた。德は書に通じていなかったが判断や処置は良吏にも劣らず、涇州所管の五郡の中で最も優れた治績を挙げた。孝武帝の西遷後、下博縣伯に進爵し東雍州事を行い、着任間もなく民に懐かれ烏丸氏の姓を賜った。
  • 大統元年(535年)公爵に進み車騎大將軍・儀同三司・北雍州刺史を加えられた。以後周文帝の征伐にたびたび従い戦功を重ね開府・侍中を加えられ河間郡公に進爵。河・渭の間の羌族がしばしば叛いたため、德の威名を頼って河州刺史に任じたところ、羌族は皆服した。後に涇州刺史として没し諡は献。德は篤実廉直で言行に選ぶところがなかった。母は百歳近くまで存命し、德の没後もなお生きていた。
  • 子の王慶は幼名を公奴といい、慎み深い性格で開府儀同三司を務めた。もと德が父を失った際、葬儀費用のため公奴と娘一人を売り渡さねばならなかったが、その後の戦乱で消息を絶っていた。德が平涼にいる間に再会でき、慶と名付けた。