知略の将
- 中山の人、本名は道德。父の劉特真は領人酋長を務め、魏の大統中、亮の功により恆州刺史を追贈された。亮は若くして豪放で謀略に富み、姿貌も堂々として人に一目置かれた。都督として賀拔岳の西征に従い功により廣興縣子に封じられた。
- 侯莫陳悅が岳を害すると、亮は諸将とともに周文帝擁立を謀った。悅の平定後もその党である豳州刺史孫定兒がなお州に拠り数万の兵を擁していたため、周文帝は亮に襲撃を命じた。定兒は義軍がまだ遠いと油断していたが、亮はわずか二十騎で近くの高い嶺に旗を一本立てて先に城内に突入した。定兒が酒宴の最中に亮が現れると皆驚愕し、亮は兵を指揮して定兒を斬り首を州門に懸けて賊党に降伏を促し、城外の旗を指して「大軍を追って呼んで来い」と二騎に命じたところ賊党は恐れをなし一斉に降伏した。
- 周文帝が十二軍を編成した際、亮は一軍を統率し、征討のたびに怡峰とともに騎将として活躍した。潼関回復の功で饒陽縣伯に封じられ侍中を加えられた。竇泰の捕縛、弘農奪還、沙苑の戦いにも力戦して功を立て、開府儀同三司・大都督に進み長廣公に進爵した。母の喪により辞職し喪に服して痩せ衰えたが、周文帝はその篤い孝心を惜しみ服喪明けを待たず官に復させた。
- 亮は勇敢さで知られ当時の名将であったが、しばしば計略を進言してよく的中させたため、周文帝は「卿は文武を兼ね備えた、私にとっての孔明だ」と称え、亮という名と侯莫陳氏の姓を賜った。東雍州刺史に出て清らかな政を行い民に慕われたが、任地で没した。喪が京師に届くと周文帝自ら弔問し、涙して「股肱を失った、腹心を誰に頼ろうか」と述べ、鴻臚卿に喪事を監督させ太尉を追贈、諡は襄。後に周文帝の廟廷に配祀された。子の劉昶が跡を継いだ。
- 昶は周文帝の娘西河長公主を娶り、大象年間(579-580年)柱国・秦州靈州二州総管となり、父亮の功により彭国公に封じられた。隋の開皇中、事に坐して死んだ。
- 昶の弟劉靜は天水郡守。靜の弟劉恭は開府儀同三司・饒陽縣伯。恭の弟劉幹は上儀同三司・褒中侯。