戦功と早世
- 字は景阜、遼西の人。もとの姓は默台であったが、難を避けて怡氏に改めた。高祖の怡寬は燕の遼西郡守で魏の道武帝の時に帰順し羽真を拝命し長蛇公を賜った。曾祖の怡文は冀州刺史。
- 峰は若くして驍勇で知られ、賀拔岳の万俟醜奴討伐に従い蒲陰縣男を賜った。岳が害されると趙貴らとともに周文帝擁立を謀り伯爵に進んだ。齊神武と孝武帝の間に亀裂が生じると、周文帝は峰と都督趙貴を洛陽に派遣した。潼関に至った頃、孝武帝が西遷したため周文帝に従い洛陽を奪還、潼関を回復した。
- 曹泥討伐の功で華陽縣公に進爵。竇泰を小関で破った戦、弘農奪還・沙苑の戦いにも従い樂陵郡公に進爵した。元季海・獨孤信とともに洛陽を回復した際、東魏の行台任祥が歩騎万余で潁川を攻めると、峰は軽騎五百でこれを迎撃し大破、以後威名がいっそう高まり、開府儀同三司を加えられた。
- 周文帝と東魏が河橋で戦った際、峰は左軍を率いたが不利となり李遠とともに先に退却し、周文帝も撤退を余儀なくされた。周文帝はその罪を不問とし、夏州刺史に任じた。大統十五年(549年)東魏が潁川を包囲すると峰は趙貴とともに救援に向かったが、南陽で病没した。
- 峰は沈着で胆略に富み士卒の心を得て当時「驍将」と呼ばれた。周文帝は久しく嘆き悲しみ、華州刺史を追贈し諡は襄威。
- 子の怡昂が跡を継ぎ開府儀同三司となった。朝廷は峰の功を録して昂を郡公に封じた。昂の弟怡光は父の勲功により安平縣侯を賜り開府儀同三司を加えられた。光の弟怡春は若くして名を知られ吏部下大夫・儀同三司となった。