北史卷六十五 列傳第五十三 若干惠

西魏の勇将

  • 字は惠保、代の武川の人。その先祖は魏とともに興り、国号を姓とした。父の若干樹利周は魏の廣陽王元深に従い葛榮を討った戦で没し、冀州刺史を追贈された。惠は別将として賀拔岳に従い、功により北平縣男に封じられた。岳が侯莫陳悅に殺されると、惠は寇洛・趙貴らとともに周文帝擁立を謀り、悅の平定に従って直閣將軍を拝命した。
  • 竇泰の捕縛、弘農・沙苑の戦いに従い、いつも先陣を切って陣を陥れた。侍中・開府儀同三司を加えられ長樂郡公に封じられた。大統四年(538年)魏文帝の洛陽東巡に従い、齊神武と河橋で戦い力戦してこれを破った。七年(541年)領軍に遷る。
  • 高仲密が北豫州を挙げて帰順した際、周文帝がこれを迎え洛陽まで進むと、齊神武は芒山に布陣した。惠は右軍を率い中軍とともに大破したが、齊神武の兵が左軍に集中し、趙貴らの軍が不利となった。日暮れに齊神武が惠を攻めたが撃退し、夜になっても齊軍の騎兵が追撃したが、惠は落ち着いて厨人に食事の支度を命じ、食事を終えると左右に「長安で死ぬのも、ここで死ぬのも同じことだ」と述べ、旗を立て角笛を鳴らして軍を収めて引き上げた。齊神武の追撃騎兵は惠を憚り伏兵を疑って迫らなかった。
  • 弘農に戻り周文帝に賊の状況を報告し、あと一歩で成らなかった戦果を悔やんで嘆いた。周文帝はその豪胆さを称え司空に任じた。惠は剛直な性格で勇力があり容貌も堂々としていた。撫御に長け将士は皆その恩義に懐いた。侯景が内附した際、朝議は河南を接収しようとし惠に魯陽の鎮守を命じたが、病を得て軍中で没した。
  • 惠は諸将のうち最も年少であった。早くに父を亡くし母に孝を尽くしたことで知られる。周文帝が新造の射堂で諸将を招いて宴射した際、惠がひそかに「親はすでに老いているのに、いつこの堂を我が家に建てられようか」と嘆くのを聞き、その日のうちに堂を惠の邸宅に移築させたという逸話がある。没した際、周文帝は久しく涙を流し、喪の到着時にも自ら弔問に赴いた。秦州刺史を追贈され諡は武烈。子の若干鳳が跡を継いだ。
  • 若干鳳は字を達摩といい見識と度量があった。父の爵長樂郡公を襲い、周文帝の娘を娶った。開府儀同三司・大馭中大夫を歴任し、後に父惠の輔佐の功が録され徐国公に封じられ柱国を拝命した。