北史卷六十五 列傳第五十三 達奚武

字は成興、代の人。西魏創業の功臣で、竇泰討伐・沙苑の戦いでの偵察活動や河橋での高敖曹討ち取りなど数々の軍功を挙げ、太傅にまで至った。質素を旨とした一方で万釘金帯を私したという逸話も伝わる。子の震も柱国・鄭国公として父の跡を継いだ。

年表(9件)

西魏の軍功

  • 字は成興、代の人。祖父の達奚眷、父の達奚長はともに鎮将であった。若くして豪放で騎射を好み、賀拔岳が関右を征する際、別将として招かれた。岳が侯莫陳悅に害されると、武は趙貴とともに遺骸を平涼に持ち帰り、周文帝を擁立した。悅の平定に従い須昌縣伯に封じられた。
  • 大統の初め、大丞相府中兵参軍から東秦州刺史に出た。齊神武(高歓)が竇泰・高敖曹とともに三方から侵攻した際、周文帝は竇泰の軍だけを撃つべく諸将と議論したが、武と蘇綽だけが周文帝の意見に同調し、結果的に竇泰を捕らえることができた。周文帝が弘農を攻略しようとした際、武は二騎で偵察に出て敵の斥候と遭遇、六人を斬り三人を捕らえて戻った。
  • 齊神武が沙苑に向かった際も武を偵察に送った。武は三騎とも敵の衣装で変装し、夜になると下馬して敵陣の合言葉を盗み聞き、巡回して規律違反者を鞭打つふりまでして敵情を探り、周文帝に報告した。この情報により西軍は沙苑で齊軍を破った。高陽郡公に進爵。
  • 大統四年(538年)周文帝の洛陽救援に前鋒として従い、李弼とともに莫多婁貸文を破った。さらに河橋に進んで力戦し、東魏の司徒高敖曹を斬った。雍州刺史に再任。芒山の戦いでは大軍が不利となり齊神武が陝まで進撃したが、武がこれを防いで撤退させた。
  • 大統十七年(551年)漢川経略を命じられた。梁の梁州刺史宜豐侯蕭修が南鄭を固守していたが、武がこれを包囲すると修は服従を願い出た。梁の武陵王が救援に送った楊乾運らを撃退すると修はついに降伏、斂門以北はすべて平定された。翌年凱旋。朝議で柱国に任じようとしたが、武は「自分が柱国になれば元子孝より上になってしまう」と固辞し、大將軍のまま玉璧に出鎮した。

周朝での栄達

  • 周孝閔帝踐祚後、柱国・大司寇を拝命。齊の北豫州刺史司馬消難が州を挙げて帰順した際、詔により楊忠とともに迎え入れた。武成年間、大宗伯に転じ鄭国公に進封。齊の将斛律敦が汾・絳を侵すと武がこれを防ぎ敦は退いた。武は柏壁城を築き開府権嚴・薛羽生に守らせた。
  • 保定三年(563年)太保に遷る。同年、大軍が東征し隨公楊忠が突厥とともに北道から、武が三万騎で東道から晉陽で合流する計画であったが、武は平陽で遅れて進まず、既に撤退した楊忠と連絡もつかないまま、齊の斛律明月から「鴻鶴はすでに大空に舞い上がったのに、罠を張る者は今も沢を見ている」との皮肉の書を受け取り、班師した。同州刺史に出る。
  • 翌年、晉公宇文護の東伐に従う。尉遲迥が洛陽を包囲され敗れた際、武は齊王宇文憲とともに芒山でこれを防いだ。夜になり撤退の際、憲は明朝再戦を望んだが、武は「洛陽の軍が散乱し人心は動揺している、夜のうちに退かねば明日には帰れなくなる」と説き、憲もこれに従い全軍を無事に返した。天和三年(568年)太傅に転じた。

人物

  • 武は若い頃は奢侈で華美を好んだが、重職に就いてからは威儀を張らず、外出は単騎で従者もわずか一、二人、門にも戟を並べず昼も一枚の扉だけを開けていた。ある人がその質素さを問うと、武は「自分はもと庶民、富貴など望んでいなかった。今日の富貴は昔を忘れていい理由にはならないし、天下がまだ平定されず国恩に報いていない以上、威容を飾るわけにはいかない」と答えた。
  • 同州刺史であった時、旱魃に際し武帝が武に華嶽への祈祷を命じた。廟は山麓にあり通常はそこで祈るのが慣例であったが、武は「三公の地位にありながら陰陽を調えられないのだから、常人と同じではいけない、山頂まで登って誠を尽くすべきだ」と述べ、六十歳を超えていたにもかかわらず数人の従者だけで藤づるをつかんで山を登り、頂上で祈願、日暮れて下山できず草を敷いて野宿した。夢に白衣の人が現れ手を取り「よく苦労した」とねぎらったといい、武は目覚めて敬虔さを増した。翌朝、雲霧が起こり雨が降り遠近を潤した。武帝はこれを聞いて璽書で労い、彩帛百匹を賜った。
  • 武は貪欲で吝嗇な面もあった。大司寇であった頃、庫に万釘金帯という宝物があり、武はこれを勝手に持ち帰った。管理者が晉公宇文護に訴えたが、護は武の勲功の重さを憚って咎めず、むしろこれを賜物として与えた。当時の世論は深くこれを卑しんだ。
  • 没後、太傅・十五州諸軍事・同州刺史を追贈され諡は桓。子の達奚震が跡を継いだ。

達奚震――子の代

  • 字は猛略。若くして驍勇で走って馬に追いつくほどであった。周文帝が渭北で狩りをした際、兎が前を横切り諸将が競って射ようとした折、震は馬から落ちても足をひねらず徒歩で追って一発で命中させ、馬が起き上がる間に飛び乗った。周文帝は「この父にしてこの子あり」と喜び雑彩百段を賜った。後に魏昌縣公に封じられた。
  • 明帝の初め司右中大夫を拝命、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。武成初め廣平郡公に進爵し華州刺史に出た。膏腴の家に生まれながら若くから武芸を修め、なお政治にも通じていた。天和六年(571年)柱国を拝命。建德の初め(572年)鄭国公を襲爵。鄴の平定に従って侍妾二人・女楽一部を賜り大宗伯を拝命した(父も同職を務めたことから当時の評判となった)。宣政中(578年)原州総管として出仕。隋の開皇初め自宅で没した。
  • 震の弟達奚惎は大象末(580年頃)益州刺史として王謙の蜀での挙兵に加わり誅殺された。