北史卷六十四 列傳第五十二 柳虯

河東解の人、字は仲盤。西魏の史官制度を確立し「史官の記事は当朝で明言させたうえで史閣に付すべき」と上疏して施行させた学者。清貧を旨とし恭帝元年(554年)に没した(享年五十四、諡は孝)。弟の柳檜は義に殉じ黄衆寶に殺害されたが、子の雄亮が仇を討った。一族から柳慶・柳機・柳述・柳謇之ら西魏・北周・隋に仕えた多くの官人を輩出した。

年表(17件)

経歴前半

  • 河東解の人。五世祖の柳恭は後趙で河東郡守を務め、秦・趙の乱を避けて南方に移住し汝・潁の間に住み江左に仕えた。祖父の柳緝は宋の司州別駕・宋安郡守。父の柳僧習は隷書に巧みで当代に知られ、豫州刺史裴叔業とともに州を挙げて魏に帰順、北地・潁川二郡守や揚州大中正を歴任した。
  • 虯は十三歳から専心して学問に励んだ。当時、高貴な家柄の子弟は華美な服装で通学したが、虯は身なりを飾らず、五経を広く学び子史にも通じ文章を好んだ。孝昌中(525-527年)揚州刺史李憲に秀才として推挙され、兗州刺史馮俊に府主簿として招かれた。その後樊子鵠が吏部尚書、兄の樊義が揚州刺史となり虯を揚州中従事・鎮遠將軍としたが、好むところではなく官を棄てて洛陽に帰った。天下が乱れる中、陽城に隠棲し隠遁の志を持った。
  • 大統三年(537年)馮翊王元季海・領軍獨孤信が洛陽を鎮めた頃、旧都は荒廃し人材も少なかったが、陽城に虯、潁川に裴諏がいたため二人を招聘、虯は行台郎中、諏は北府属として文書を掌った。当時の人は「北府裴諏、南府柳虯」と称した。軍務多忙のなか虯は精励し夜通し眠らないこともあり、元季海は「柳郎中の裁定なら私は見直す必要がない」と評した。
  • 大統四年(538年)入朝し周文帝が官職を与えようとしたが、虯は母が老いていることを理由に医薬に侍りたいと辞退し許された。獨孤信の開府従事中郎となり、信が隴右に出て秦州刺史になると二府司馬に任じられたが(重臣の列にありながら府事は取り仕切らず、信の側で談論するのみであった)、使者として周文帝に謁見した際に留められ丞相府記室となり、帰朝の功を追論され美陽縣男に封じられた。

史官論と後半生

  • 虯は史官が善悪を密かに記すだけでは戒めにならないと考え、上疏した。要旨は「古の君主は史官を置いて単なる記録以上に鑑戒の役割を持たせ、行動は左史が、言葉は右史が記した。南史は節を曲げず崔杼の罪を記し、董狐は書法を守って趙盾の過ちを明らかにした。しかるに漢魏以降は密かに注記するのみで、後世に伝わっても当時の役には立たなかった。密書ゆえに班固は金を受けたとの誹りを受け、陳寿は米を求めたとの評を招いた。史官の記事は当朝で明言させたうえで史閣に付すべきである」というものであった。この提言は施行された。
  • 大統十四年(548年)秘書丞に任じ著作を領した(それまで秘書丞は史事に関与しなかったが、虯から史事を監掌するようになった)。中書侍郎に遷り起居注を修めながら丞事も兼ねた。
  • 当時、文体の古今について論争があったが、虯は「時に古今の別があるのであって文に古今の別があるのではない」として『文質論』を著した(文は多くを載せない)。
  • 廢帝の初め(552年)秘書監に遷り車騎大將軍・儀同三司を加えられた。虯は世俗を超越し些事にこだわらず、粗末な衣と質素な食事を改めなかった。人が譏ると「衣は体に合えばよく、食は飢えを凌げばよい、あくせく求めるのは思慮を無駄にするだけだ」と答えた。
  • 恭帝元年(554年)冬に没した。享年五十四。兗州刺史を追贈され諡は孝。文章数十篇が世に伝わった。子の柳鴻漸が跡を継ぎ、虯の弟に柳檜がいる。

柳檜(字季華)――軍功と最期

  • 剛直で気概があり文には少なく、騎射に巧みで決断力に富んだ。十八歳で奉朝請として仕官。父の喪に服して痩せ衰えるほど礼を尽くし、服喪明けに陽城郡丞・防城都督となった。大統四年(538年)河橋の戦いで周文帝に従い先陣を切って功を立て都督となり鄯州を鎮めた。八年(542年)湟河郡守を拝命し軍事も統括、平東將軍・太中大夫を加えられた。
  • 吐谷渾が郡境に侵入した際、兵が少なく人々が動揺する中、檜は自ら数十人を率いて先制攻撃し、渾軍を潰乱させて大勝、萬年縣子に封じられた。以後、吐谷渾が強盛でしばしば侵掠しても檜が鄯州を鎮める限り必ず撃破し、数年後には侵入もなくなった。
  • 大統十四年(548年)河州別駕に遷り帥都督に転じ、使持節・撫軍將軍・大都督を拝命した。三年後、京師に召還された。
  • 兄の柳虯が秘書丞、弟の柳慶が尚書左丞であったとき、檜は兄弟に「兄は文書を司り人倫を褒貶し、弟は朝廷の要職にある。まさに栄寵と言える。しかし四方はまだ静かでなく、私は矢石を冒し危難に臨んで国恩に報いよう」と語った。まもなく周文帝は「かつて鄯州で忠勇を示した卿に、西の境は静まったので東の辺境九曲を守ってもらいたい」と述べ、檜を九曲に鎮めさせた。
  • その後、大將軍王雄に従い上津・魏興を平定し、魏興・華陽二郡守を兼ねた。安康の黄衆寶が反乱を起こし党与を結んで州城を包囲しようとした際、「柳府君は勇猛で敵し難いが、今は外にいるから我らの脅威になっている、先に討とう」と檜の郡を包囲した。城は低く兵は少なく守備も不十分で十数日戦い続けたが力尽きて陥落、檜は十数か所の傷を負って捕らえられた。
  • 黄衆寶らは続いて東梁州を包囲し、檜を城下に縛り付けて降伏を呼びかけさせようとしたが、檜は「賊は烏合の衆、糧食も尽きてまもなく散るだろう、皆奮闘せよ」と大声で叫んだ。激怒した衆寶が言葉を変えるよう脅したが檜は節を曲げず殺害され、屍は水に投げ込まれた。城中の人々は皆涙を流した。囲みが解けた後、檜の兄の子止戈が屍を収めて長安に戻し、東梁州刺史を追贈された。子の柳斌が跡を継いだ。

柳斌・柳雄亮――柳檜の子ら

  • 柳斌は字を伯達といい、十七歳のとき齊公宇文憲に記室として召されたが早世した。
  • 弟の柳雄亮は字を信誠といい、父檜が華陽で殺害された際、雄亮は十四歳ながら哀しみのあまり心身をやつし、密かに復讐の志を抱いた。武帝の時、黄衆寶がその一党を率いて長安に帰順し帝が厚遇したが、雄亮は白昼に長安城中で衆寶を斬り、闕下に罪を請うた。帝は特別に許した。のち内史中大夫に累進し汝陽縣子を賜り、隋文帝受禅後は尚書考功侍郎、給事黄門侍郎に転じた。尚書省の奏事の多くを是正し公卿に恐れられた。まもなく本官のまま太子左庶子を検校し伯爵に進み、秦王楊俊が隴右を鎮めた際には秦州総管府司馬・山南道行台左丞として出仕し、没した。子の柳賛が跡を継いだ。

柳鷟・柳帯韋――柳虯のもう一人の弟の系譜

  • 柳檜の弟柳鷟は学を好み文章に優れ、魏の臨淮王の記室参軍事として没した。
  • 子の柳帯韋は字を孝孫といい、思慮深く度量があり学を好んだ。身長八尺三寸、風采よく応対に長けた。周文帝に参軍事として招かれ、侯景が江南で反乱を起こした際には江州・郢州への使者として梁の邵陵王・南平王との通好にあたった。安州で段寶らの反乱に遭ったが、周文帝の書状を偽って人心を鎮め、そのまま降伏を取り付けた。邵陵王と会見して周文帝の意向を伝え、使命を全うした功により輔國將軍・中散大夫を授かった。
  • のち達奚武の漢川経略に行台左丞として従軍し南征、梁の宜豐侯蕭修が守る南鄭が落ちない中、帯韋が入城して降伏を説得した。廢帝元年(552年)解縣令となり驃騎將軍・左光祿大夫を加えられ、汾陰令に転じて不正を摘発し民に畏敬された。周の武成元年(559年)武藏下大夫。天和二年(567年)康城縣男に封じられ、兵部中大夫に累進した(職を変えても武藏の任は継続した)。天和五年(570年)武藏中大夫に転じ、驃騎大將軍・開府儀同三司に進んだ。十数年にわたり要職を務め、処断に滞りなく官府は清粛であった。
  • 譙王宇文儉が益州総管、漢王宇文賛が益州刺史であった際、武帝は帯韋を益州総管府長史・益州別駕として二王を補佐させ、軍事を統括させた。大軍が東征した際は前軍総管齊王宇文憲府長史として従軍、齊平定後は上開府儀同大將軍に進み公爵を得た。陳王宇文純が并州を鎮めた際には并州司会・并州総管府長史となり、任地で没した。諡は愷。子の柳祚が跡を継ぎ、若くして名望があり宣納上士となった。隋では司勲侍郎を務めた。

柳慶(字更興)――弁舌と司法の名臣

  • 幼くして聡敏で器量があり、多くの書を読んだが章句にこだわらず、酒を好み対応に巧みであった。十三歳のとき、書物を虫干ししていた際に父僧習が試しに雑賦集から千余言の賦を選んで暗誦させると、三度読んだだけで漏らさず暗誦したという。
  • 父僧習が潁川郡守であったころ、都畿に近く豪族が多く、郷官の選任に権貴の請託が殺到した。僧習は「請託には応じないが、断りの返事は必要」として子らに手紙を書かせ、慶が起草した文を読んで「この子には気概がある、男子はこうあるべきだ」と感嘆し、その草稿どおりに返答した。慶はこれにより奉朝請として仕官した。
  • 慶は父の第四弟の養子となっていたが、実父の喪に際して重服(実子並みの喪)を認めない議論が起こると、慶は「礼は人情に基づく、養家にすでに重い喪服があるからといって実の親への服喪を奪うことなど、天性に背く」と泣いて訴え、時論もこれを抑えられず、こもを敷き土塊を枕に喪に服し、埋葬後は兄たちと土を負って墳を築いた。
  • 孝武帝が西遷しようとした際、慶は散騎侍郎として急使となり関中に入った。高平で周文帝に会い時事を論じると、周文帝はすぐに輿駕を迎える意向を示し慶を先に返して復命させた。当時荊州にいた賀拔勝について、帝が左右を退けて「荊州へ行こうと思うがどうか」と問うと、慶は「関中は金城千里、天下の強国だが、荊州は要害に乏しく基盤とするには足りない」と答え、帝はこれを容れた。帝の西遷後、慶は母が老いていたため従わなかったが、獨孤信が洛陽を鎮めた際に入関し相府東閣祭酒となった。
  • 大統十年(544年)尚書都兵郎中となり記室を兼ねた。北雍州が白鹿を献上し群臣が祝賀の意を示そうとした際、尚書蘇綽は「近年の文章は江左以来ますます軽薄になっている、洛陽の後進もこれに倣っている、この上表文で旧弊を改めてほしい」と慶に命じた。慶は即座に筆を執って文質を兼ねた文章を作り、蘇綽は「柑橘さえ移し植えられるのだから、才人はなおさらだ」と笑って評した。
  • 雍州別駕を兼ねると、魏の皇族広陵王元欣の甥孟氏がしばしば横暴を働き、牛の窃盗を告発された。慶が実情を確かめ拘禁しようとすると孟氏は少しも恐れず、元欣も無罪を弁護する使者を送ったため孟氏はますます驕った。慶は僚吏を集め孟氏の権勢を笠に着た侵虐ぶりを明らかにし、笞刑で処刑した。以後、貴戚は手を控えるようになった。
  • ある賈人が金二十斤を紛失した事件では、宿の主人が疑われ自ら罪を認めたが、慶は疑問を持ち賈人を問いただし、ある沙門と二度酒宴をともにし酔って昼寝をしたことを聞き出し「その沙門こそ真の盗人だ」と断じ、逃亡していた沙門を捕らえて金をすべて取り戻した。大統十二年(546年)三十六曹を十二部に改める改革で計部郎中となり別駕も兼ねた。
  • 胡人の家が強盗に遭い犯人不明のまま近隣の多くが囚われた事件では、慶は賊が烏合の衆であることを見抜き「共犯者は先に自首すれば罪を免れる」という匿名の掲示を出させ、二日後に広陵王欣の家奴が自ら縛って名乗り出たことで一味を一網打尽にした。慶の公正明察はこの類が多く、常に「私心なく獄を断ずれば高門を建てて封を待つほどの家名を残せるという、もしこの言葉が真実であれば私もそれに近いだろう」と語った。清河縣男に封じられ尚書左丞となり計部を摂した。
  • 周文帝が罪なき安定国の重臣王茂を怒って殺そうとした際、朝臣の誰も諫めなかったが慶は進み出て諫めた。周文帝が怒って「卿が無罪と明言するなら卿もその責を負え」と慶を捕らえさせても、慶は屈せず「君に不明な点があるのに諫めない臣は不忠、慶は死を惜しみませぬが、ただ公が不明の君となることを恐れるのみです」と抗弁した。周文帝はついに悟って王茂を赦免しようとしたが既に手遅れであった。翌日、周文帝は「卿の言を用いなかったため王茂を冤罪で死なせた、その家に銭帛を賜って過ちを示そう」と述べ、慶は子爵に進んだ。
  • 慶は威儀端正で弁舌に優れ、周文帝が号令を発するときは常に慶に宣させた。天性剛直で回避することがなく、周文帝は深く信任した。恭帝の初め(554年)驃騎大將軍・開府儀同三司・尚書右僕射に進み左僕射に転じ著作を領した。六官制の整備(556年)で司会中大夫を拝命。
  • 周孝閔帝踐祚(557年)宇文氏の姓を賜り平齊縣公に進爵。晉公宇文護が初めて執政した際、腹心にしようとしたが慶は辞退し宇文護の不興を買い、さらに楊寛との不和もあって疎まれ万州刺史に出された。明帝が真意を悟り雍州別駕として留め京兆尹を兼ねさせた。武成二年(560年)宜州刺史となる(慶は郎から司会に至るまで府庫倉儲を職掌としていた)。宜州にいる間、小塚宰となった楊寛が慶の旧部下を囚えて罪を探ろうとし六十余日取り調べたが、獄死者が出ても何も語らず、賄賂として乗った錦数匹しか出ず、人々はその廉潔さに感服した。その後再び司会となった。
  • 先に兄柳檜が魏興郡守として賊黄衆寶に殺害された際、遺された幼い三人の子を慶が篤く養育した。後に衆寶が帰順して優遇されていたが、檜の次子雄亮が白昼に長安城中で衆寶を斬った。晉公宇文護は激怒して慶の子や甥をすべて拘禁し慶が私的に人を殺させたと責めたが、慶は「父母の仇は天を同じくせず、兄弟の仇は国を同じくせずと申します。公は孝をもって天下に臨む立場でありながら、なぜこの一件を責められるのですか」と答え、護はいっそう怒ったものの慶の態度は屈せず、結局全員赦された。慶はその後没し、鄜州・綏州・丹州の刺史を追贈され、諡は景。子の柳機が跡を継いだ。

柳機(字匡時)――経歴

  • 容貌堂々として器局があり経史に通じた。十九歳のとき周武帝がまだ魯公であった時期に記室として招かれ、帝の即位後は太子宮尹に累進し平齊縣公に封じられた。宣帝の時代には御正上大夫となったが、帝の失政を見てしばしば諫めても聞かれず、身に禍が及ぶことを恐れて鄭訳に頼み外任を求め、華州刺史に転出した。
  • 隋文帝が丞相となり京師に呼び戻された際、周朝の旧臣の多くが禅譲を勧める中で機だけは義気を面に表し何も進言しなかった。まもなく衛州刺史。文帝踐阼後は建安郡公に進爵し納言に召された。機は寛容で名望があり、近侍として損益することなく務め、酒を好み細務には関わらなかった。数年後、華州刺史として出て毎月参内するよう詔され、まもなく冀州刺史に転じた。
  • のち召還され、子の柳述が蘭陵公主を娶ったことでいっそう厚遇された。かつて周にいた頃、族人の文城公柳昂とともに顕職を歴任していたが、この頃には昂・機ともに外任にあった。楊素が納言として権勢を振るっていたころ、上の宴で「二柳(柳昂・柳機)ともに挫け、孤楊(楊素)だけが聳え立つ」と戯れると座は笑ったが機だけは無言であった。まもなく州に戻り、前後の任地ではいずれも寛恵と称された。のち召還され自宅で没した。大将軍・青州刺史を追贈され諡は簡。子の柳述が跡を継いだ。

柳述――栄達と失脚

  • 字は業隆。聡明で機略があり文芸にも通じた。父の蔭により太子親衛となり、後に公主に嫁いだことから開府儀同三司・内史侍郎を拝命、上は多くの娘婿の中で特に彼を寵遇した。一年余りで兵部尚書事を判じ、父の喪により去職、まもなく給事黄門侍郎事を摂して建安郡公を襲爵した。
  • 仁寿中(601-604年)吏部尚書事を判じた。述は職務をよくこなし当時称賛されたが、大局を弁えず部下に対して横暴で、寵を頼んで驕り誰にも屈することがなかった。当時権勢のあった楊素に対しても朝臣は皆恐れる中、述はしばしば楊素を侮り、上の面前で楊素の欠点を指摘した。判断が食い違い楊素が意見を変えるよう求めても、述は使者に「僕射に伝えよ、尚書は承服せぬと」と述べ、楊素の恨みを買った。まもなく楊素が疎まれ政務から遠ざけられると、述の権威はいっそう強まり兵部尚書として機密に参与したが、述は自ら功のなさを恥じて上表し辞退を願い出て許され、兵部尚書事を摂することとなった。
  • 上が仁寿宮で病臥した際、述は楊素・黄門侍郎元岩らとともに宮中で侍疾した。皇太子(楊広)が陳貴人に無礼を働いたことを上が知って激怒し、述に房陵王(廃太子楊勇)を召すよう命じた。述は元岩とともに外で勅書を作成したが、それを見た楊素は皇太子と謀り、詔を偽って述と元岩を捕らえ官吏に引き渡させた。煬帝の即位後、述は坐して除名された。妻の蘭陵公主が同行を願い出たが帝は許さず、述は龍川に数年、さらに寧越に移されて瘴癘の地で没した。

柳弘・柳旦・柳肅――柳機の弟たち

  • 柳弘は字を匡道といい、聡穎で草書・隷書に巧みで、書を広く読み文才に富み、弘農の楊素と莫逆の交わりを結んだ。中外府記室として仕官し、建德初め(572年)内史上士となり小宮尹・御正上士を歴任した。陳が使者王偃人を送って来聘した際、武帝は弘に接待させた。偃人は「藍田に至った折、滋水が急に増水し進呈する国信が流されてしまった、下流の者に探させたい」と述べたが、弘は「昔、淳於(淳於髠)が空の籠を献じたのは前史に美談として伝わる。あなたが物を借りて進呈するのは、陳王のご命令と言えるのか」と看破した。偃人は答えられず恥じ入り、武帝はこれを喜んで偃人が持参した物をすべて弘に与え、報聘の使者とした。弘は機敏な応対で時に称賛され、御正下大夫として没し晉州刺史を追贈された。楊素は誄文で「山陽の王弼のように風流が長逝し、潁川の荀粲のように零落は時を選ばぬ……」と哀悼し、士友に深く惜しまれた。文集が世に伝わった。
  • 弘の弟柳旦は字を匡德といい、騎射に巧みで書籍にも通じた。周に仕え兵部下大夫となり、行軍長史として梁睿の王謙討伐に従い儀同三司を授かった。開皇元年(581年)開府を加えられ新城縣男に封じられ掌設驃騎を授かり、羅・浙・魯三州の刺史を歴任しいずれも能吏として知られた。大業初め(605年頃)龍川太守を拝命、山間に住む郡民が互いに攻撃し合う風習を学校の設置で大きく改めたことが帝に知られ褒美の詔を受けた。太常少卿に召され黄門侍郎事を摂判し、没した。子の柳燮は河内郡掾に至った。
  • 旦の弟柳肅は字を匡仁といい、幼くして聡敏で応対に長けた。周に仕え宣納上士となり、隋文帝が丞相のとき賓曹参軍として招かれ、開皇初め太子洗馬を拝命した。陳の使者謝泉が来聘した際、才学を評価され肅が接待にあたり、その弁舌の巧みさが評判となった。太子内舍人を経て太子僕に転じたが、太子(楊勇)の廃立に連座して除名された。大業中、帝が段達と楊勇の罪を語った際、段達が「柳肅は東宮にありながら大いに疎まれていた」と述べ、帝がその理由を問うと、肅が学士劉臻が章仇太翼を東宮に引き入れ巫蠱の術を進めたことを諫め「殿下は儲君の位にあり、不孝を戒めとすべきです。書生の劉臻が舌先三寸で誤らせるだけです、どうかお聞き入れになりませぬよう」と諫めたところ、楊勇は不快がり劉臻に「なぜ漏らして柳肅に知らせ、私に面と向かって恥をかかせたのか」と責めたため、以後肅の言葉は用いられなくなったとの経緯が語られた。帝は「肅は不当に除名されていた」として礼部侍郎守を命じ、後に事に坐して免官、さらに工部侍郎守として重用され、帝の遼東行幸の際は常に涿郡留守を委ねられ、任地で没した。

柳謇之――経歴

  • 字は公正。父の柳蔡年は周の順州刺史。謇之は身長七尺五寸、堂々とした容貌で風采爽やかであった。幼少の頃、齊王宇文憲が道でたまたま出会い、話をしてその才を大いに評価し、国子生として推挙した。明経で及第し宮師中士を拝命、守廟下士に転じた。武帝が太廟で祭祀を行った際、謇之が祝文を読み上げ音韻が清雅であったため注目を集め、帝はこれを称賛して宣納上士に抜擢した。
  • 開皇初め通事舍人を拝命し内史舍人に遷り、兵部・司勲の両曹侍郎を歴任した。朝廷は謇之の雅望と談笑の巧みさ、また一石(大量)の酒を飲んでも乱れないことを評価し、梁・陳の使者が来るたびに接待役とした。光祿少卿に遷り、十数年にわたり奏事の職に参与した。
  • 吐谷渾が帰順した際、宗室の娘光化公主を嫁がせることになり、謇之は散騎常侍を兼ねて公主を西域に送った。さらに突厥の啓民可汗が和親を求めた際にも義成公主を突厥に送る役目を務めた。前後二国への使者としての功で贈られた馬は二千余匹、雑物も同等に及んだが、すべて一族に分け与え自宅に余財はなかった。粛州・息州の刺史として出て、いずれも善政を挙げた。煬帝踐祚後は再び光祿となった。大業初め、啓民可汗が内附したことから定襄・馬邑の間で牧畜するようになり、帝は謇之を遣わして塞外への退去を諭させた。帰還後、黄門侍郎を拝命した。
  • 元德太子が急逝し、朝野は齊王が皇太子に立てられると見ていた。帝は王府の人選を重視し、謇之を齊王の長史に任じた。帝は正装で臨席し、齊王を西朝堂に立たせ、吏部尚書牛弘・内史令楊約・左衛大將軍宇文述らを従えて謇之を齊王のもとに引見させた。牛弘は勅を宣べ、齊王に「自分が藩王として出た時、先帝は高熲・虞慶則・元旻らを子相(王劭)に付き従わせ、事の大小を問わずすべて委ねよ、子相を疎んじれば身も国も危ういと戒めた。自分はその教えを守り今日に至った、謇之に対しても子相と同様にせよ」と諭した。さらに謇之には「今、卿を齊王の補佐とするのは朕の期待に応えるものだ。斉王の徳業が備われば富貴は一門に及ぶが、不善があれば罪も及ぶ」と命じた。
  • 当時齊王は寵を恣にし、喬令則らが深く取り入っていたが、謇之はその非を知りながら匡正できなかった。齊王が罪を得ると謇之も連座して除名された。帝の遼東行幸の際には燕郡事の検校に召されたが、帝の帰還時に供応が不十分であったとして嶺南に配流され、洭口で没した。子は柳威明。

史論

  • 高歓が山東を拠って齊の勢力を築き、周文帝が関右を拠って基を開いたさまは商周・楚漢の争覇にも似て、弘農・沙苑の戦いでは齊軍が先に敗れ、河橋・北芒の戦いでは周軍が挫かれるなど勝敗は互いに入り乱れた。
  • 韋孝寬は優れた才略で要衝を守る任を受け、高歓が全軍を挙げて攻めた際に玉璧を六十日にわたり守り抜いて大敵を退け、高歓は憤りのあまり没した。これは古の即墨で燕軍を破った故事や晉陽を守り抜いて趙を存続させた故事にも劣らず、実に一城の得失を超えて周・齊二国の興亡を左右した功績である。
  • 韋夐は人に負くことなく世俗に流されず、書物に親しみ田園で心を養い、哀楽に心を動かされず名利に煩わされることのない、近代随一の高士であった。明帝が古の隠者商山四皓に彼をなぞらえたのも故ないことではない。世康は風采・度量ともに一代の傑物と称され、名家の子弟として京都で重んじられた。韋瑱も清望高く美事な人物であった。
  • 柳虯兄弟は雅道を身の基とし、いずれも士大夫層から高く評価されており、その名声は決して過大な評判ではない。柳慶は朝廷にあって私心なく職務にあたり清廉であったが、権貴を憚らず主君に逆らったために一時は苦境に陥っても、後世に至るまで評価を得た。柳機は寛容・雅正の風で名を得て、朝廷にあっても厳正な態度を崩さず、正道を貫いたと言える。柳述は幹略で知られながら最後は驕りと寵愛によって身を滅ぼした、惜しむべきことである。