北史卷六十一 列傳第四十九 王盟

楽浪の出身、字は仵。北魏の明徳皇后の兄で西魏の外戚。武川鎮出身の軍人一族で、爾朱天光・賀拔岳に従い転戦し太傅にまで進んだ、度量広く仁愛に富む人物。子の王勱・王懋、兄の子王顯の孫王誼も西魏・北周・隋に仕えた。

年表(4件)

出自と経歴

  • 王盟、字は仵、明徳皇后の兄。楽浪の出身で、六世祖の波は前燕の太宰、祖の珍は魏の黄門侍郎(并州刺史・楽浪公を追贈)、父の羆は伏波将軍として良家子の身分で武川鎮に移り、そのまま定住した。
  • 魏の正光年間、破六韓拔陵の反乱で一時擁されたが、乱平定後は中山に流寓し、積射将軍として蕭寶夤の西征に従った。寶夤の反逆時は人間に身を隠した。
  • 爾朱天光の関中入りに従い、賀拔岳の秦隴平定でも常に先登して力戦した。周文帝の侯莫陳悅平定後、原州刺史に任じられる。孝武帝の長安到達で魏昌県公に封じられた。
  • 大統三年(537年)司空に召され司徒に転じる。文帝の悼后を蠕蠕から迎える使いで侍中を加えられ太尉に昇る。魏文帝の東征時は留守として雍州事を統べ関中諸軍を統制した。趙青雀の乱では開府李虎とともに太子を渭北に護衛し、乱平定後長楽郡公に進み拓王氏を賜姓、太保に遷る。
  • 大統九年(543年)太傅・開府儀同三司に進む。度量広く仁愛に富み、師傅の位にありながら謙虚を崩さなかった。魏文帝に重んじられ、病時にはたびたび見舞いを受けた。大統十一年(545年)薨去、本官を追贈され諡は孝定。

王盟の子・王勱

  • 字は醜興、忠実果断で才幹あり。十七歳で周文帝に従い関中入りし、秦隴平定・関中確立に参加。周文帝の「坐して成敗を見る者が上策、堅を被り鋭を執る者は次策」との言に「両方を兼ねたい」と答え、周文を大いに笑わせた。
  • 散騎常侍・梁甫県公。大統初年、千牛備身直長として文帝の寝所に出入りし、魏文帝から「王勱は不二心の臣」と称された。沙苑の戦いでは都督として禁兵を率い左翼を守り、前面の敵を多数討ち取ったが自らも重傷を負い、戦陣で没した。
  • 使持節・太尉・尚書令・十州諸軍事・雍州刺史を追贈され、咸陽郡公に追封、諡は忠武。子の弼が跡を継ぎ、魏の安楽公主を娶り大都督・通直散騎常侍となった。

王勱の弟・王懋

  • 字は小興。盟の西征時はまだ幼く山東に残されていたが、永安年間に関中入りし盟と再会、以後従軍した。安平県子から公に進み右衛将軍。喪服の礼が乱れていた当時、盟の死に際し服喪を全うしたいと辞職を願うが魏文帝に許されなかった。
  • 開府儀同三司・侍中・左衛将軍・領軍将軍を歴任し宮禁を十余年守り、過失なく勤めた。廃帝二年(553年)南岐州刺史・安寧郡公。のち小司寇に任じられ官にて没した。子の悅が跡を継ぎ、大将軍・同州刺史、済南郡公に改封された。

王盟の兄の子・王顯とその子・王誼

  • 王顯は幼くして聡明沈静。周文帝の帳内都督から驃騎大将軍・開府儀同三司・光禄卿・鳳州刺史を歴任し、洛邑県公。大将軍で卒した。子は誼。
  • 誼、字は宜君。大志を抱き弓馬に長じ博覧強記。周閔帝の時、左中侍上士。大塚宰宇文護が専権し帝が沈黙するなか、帝の側で無礼を働いた朝士を誼が叱りつけ、以後朝臣は無礼を働かなくなった。禦正大夫に転じ、父の喪では墓側に廬し自ら土を運んで墳を築いた。
  • 武帝即位後、内史大夫・揚国公。斉討伐に従い并州で敗戦となった際、麾下の精鋭を率いて帝を救援した。汾州の稽胡の乱を撃破し、越王盛・譙王儉も誼の指揮下に置かれた。武帝は臨終に際し太子へ「誼は社稷の臣、機密の要職に置き遠くへ任じるな」と遺言したが、即位した宣帝は誼の剛正さを憚り襄州総管に出した。
  • 隋文帝が丞相となると、鄖州総管司馬消難の反乱を行軍元帥として討伐(消難は陳へ逃亡)。北は商・洛、南は江・淮に及ぶ二千余里の地で巴蛮が叛き渠帥蘭洛州を主に推していたが、誼はこれを一月あまりで平定した。文帝から厚遇され第五女を子の奉孝に嫁がせ、大司徒に拝された。隋の受禅後も帝の親幸を受けた。
  • 太常卿蘇威が戸口増加を理由に功臣の領地削減を議したが、誼は「歴代の勲功で得た爵土を一朝に削るべきでない」と上奏し撤回させた。文帝の岐州行幸を「人情がまだ落ち着いていない」と諫めたが、文帝は「昔は位望が等しかった君を臣とした恥を、この行幸で威武を示し心服させたい」と戯れて応じた。突厥への使者を務め、称旨により郢国公に進む。
  • 子の奉孝が没し、一年後、誼は公主がまだ若いことを理由に服喪の解除を上表した。御史大夫楊素は「三年の喪は上下に通ずる礼、王姫であっても嫁した以上は移天の義がある」として礼制違反を弾劾したが、詔により不問とされた。ただし恩礼は薄くなり誼は怨望を抱くようになった。
  • 誼の謀反を告発する者があり帝が調べさせたが、不遜の言はあっても反状はなく帝は酒を賜って赦した。その後、上柱国元諧と失意を共有し交わりを深め、言論が過激化。胡僧がこれを密告し、公卿は大逆不道として死罪を求めた。帝は「旧友としてどうにもしてやりたいが国法をどうしようもない」と嘆き、詔で誼の異端の言動(四天王神道を説き自らが受命者だと称し、讖言・天星・桃鹿二川の予言を利用したこと、卜問により天変を窺ったこと、自ら聖主を称したこと)を列挙して断罪。大理正趙綽を通じ家で自尽させた。享年四十六。