北史卷六十一 列傳第四十九 獨孤信
雲中の人、本名は如願。西魏・北周の名将で、隴右鎮撫・涼州平定などで名声を挙げ柱国大将軍・衛国公に至った。長女は北周明敬皇后、四女は元貞后、七女は隋文帝の皇后(独孤伽羅)となり、周・隋・唐三代の外戚となった稀有な人物。趙貴誅殺事件に連座し晋公宇文護に自尽を強いられた(享年五十五)。
出自と経歴
- 獨孤信、雲中の人、本名は如願。魏初の四十六部の一つ、伏留屯の部落大人の家系。祖の俟尼は和平年間に良家子として武川鎮に移住。父の庫者は領人酋長として北州で敬服された。信は容儀に優れ騎射に巧み、正光末に賀拔度らと衛可瑰を斬り知名。葛栄に捕らわれた際、自ら身なりを整え軍中で「獨孤郎」と称された。
- 爾朱氏の葛栄討伐後は別将となり、韓婁討伐で単騎挑戦し賊将袁肆周を生け捕った。元顥討伐の功で受徳県侯・武衛将軍。賀拔勝の荊州鎮守に従い大都督に表挙され、勝の弟岳が侯莫陳悅に殺されると勝の命で信が入関し岳の余衆を撫した。周文帝と郷里が同じで親しく、雍州で元毗の命によりさらに荊州へ戻った。魏孝武帝に重用された。
孝武帝西遷と荊州経略
- 孝武帝西遷の際、信は単騎で瀍澗まで馳せ参じ、帝に「武衛はよく父母を辞し妻子を捨てて我に従った、世乱に忠良を識るとはこのことか」と称賛され浮陽郡公に進む。荊州の民心はなお本朝を慕っていたため、信は衛大将軍・三荊州諸軍事都督・尚書右僕射・東南道行台・荊州刺史として招撫にあたり、東魏刺史辛纂を撃破、都督楊忠らが纂を斬り三荊は平定された。
- 東魏の高敖曹・侯景らが襲来すると衆寡不敵で梁へ奔った。三年後、両親が山東にあることを理由に「事君無二」と答えて梁武帝を感心させ帰国を許された。大統三年(537年)長安に至り、国威を損じたとして謝罪。魏文帝は驃騎大将軍・侍中・開府とし、まもなく領軍将軍。弘農奪還・沙苑の戦功で河内郡公に改封。俘虜の中に信の親族があり父の訃報を得て服喪した。
- 大統四年(538年)洛陽に進駐、東魏の侯景らの包囲に対し金墉城を死守。侯景の荊州侵攻を李弼とともに撃退。隴右十一州大都督・秦州刺史となり、混乱していた行政を立て直し数年で公私ともに富み流民数万家が帰属した。周文帝はその信望により「信」の名を賜った。岷州の蕃王梁彌定の反乱を討伐し、その子弟の残党も平定して太子太保に加えられた。
涼州平定と晩年
- 芒山の戦いで大軍が不利になると、于謹とともに殿軍として奮戦し斉神武の追撃を凌ぎ国家の存続に貢献した。涼州刺史宇文仲和の反乱に対しては開府怡峰とともに討伐し、夜襲で城を陥落させ仲和を捕らえ六千戸を長安に送り、大司馬に拝された。
- 河陽に鎮守し、大統十四年(548年)柱国大将軍に進み、諸子への回授を許され、次子の善を魏寧県公、三子の穆を鄩要県侯、四子の藏を義寧県侯、五子の順を武成県侯、六子の陀を建忠県伯に封じた。隴右在任が長く帰朝を望んだが許されず、母の訃報を受けても服喪の願いが認められなかった。のち父の庫者に司空公、母費連氏に常山郡君が追贈された。大統十六年(550年)尚書令、六官制で大司馬。
- 周孝閔帝踐阼で大宗伯・衛国公(邑一万戸)。趙貴誅殺事件に連座して免官となり、まもなく晋公護から自尽を強いられた。享年五十五。
- 信は風度に優れ奇謀大略を持ち、隴右鎮撫で名声が鄰国に轟いた(東魏の檄文が信の隴右割拠を偽って利用した逸話、秦州で獵から急ぎ帰城した際帽子が傾いていたのを見た吏人が競って側帽を真似た逸話)。長女は周明敬后、四女は元貞后、七女は隋文献后――周・隋・唐三代の外戚となった稀有な例で、隋文帝から太師・上柱国・十州諸軍事・冀州刺史、趙国公(邑一万戸)が追贈され諡は恭、母費連氏も太尉趙恭公夫人が追贈された。
獨孤信の子・獨孤羅
- 東魏に残されていたため次子の善が嗣子となったが、斉平定後羅が生存し善が卒したため羅が嗣となった。字は羅仁。信の孝武帝西遷後、羅は高氏に囚われた。宇文護が誅殺されて後に釈放され、中山に寓居し困窮したが、斉将獨孤永業がその宗族を憐れみ田宅を買い与えて助けた。
- 信は関中入り後、郭氏(子善・穆・藏・順・陀・整を生む)と崔氏(隋献皇后を生む)を娶っていた。斉滅亡後、隋文帝(当時定州総管)の下で献皇后が羅を捜し出し、悲しみのうちに再会した(侍者もみな涙した)。周武帝が功臣の子として楚安郡太守に召したが、病により辞し帰京した。弟たちに軽んじられても長幼の礼に固執せず争わなかったため、のち逆に重んじられた。
- 隋文帝の丞相就任時に儀同を拝し常に左右に置かれた。受禅後父への追贈があったが、羅の母が斉で没し夫人号がなかったことを理由に弟たちが承襲に異を唱えた。文帝が皇后に問うと、皇后は「羅は正嫡長子、無視できない」と裁定し、羅が趙国公を襲爵した。弟の善は河内郡公、穆は金泉県公、藏は武平県公、陀は武喜県公、整は千牛備身に封じられた。羅は左領左右将軍・左衛将軍・涼州総管を歴任し上柱国に進み、左武衛大将軍。煬帝即位で蜀国公に改封、まもなく官にて没し諡は恭。
- 子の纂が跡を継ぎ河陽都尉。弟の武都も大業末に河陽都尉となった。庶長子の開遠は宇文化及の弑逆に際し千牛として獨孤盛とともに力戦して捕らえられたが、賊も義を認めて赦した。
獨孤信の子・獨孤善
- 字は伏陀。幼くして聡慧、騎射に優れ、父の勲功で魏寧県公。魏廃帝元年(552年)驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中、長城郡公に進む。父の連座で家に廃されるが保定三年(563年)龍州刺史、天和六年(571年)河内郡公を襲爵。東征の功で上開府、兗州刺史として簡明な善政をしき、任地で卒した。持節・柱国・五州諸軍事・定州刺史が追贈された。子の覧が跡を継ぎ右候衛大将軍、大業末に卒した。
獨孤信の子・獨孤陀
- 字は黎邪。周に仕え胥附上士。父の連座で蜀に十余年謫居し、宇文護誅殺後帰還。隋文帝の受禅後、上開府・領左右将軍、延州刺史に累転した。
- 陀は左道を好んだ。外祖母の高氏がもと猫鬼を祀り舅の郭沙羅を殺していたが、その術が陀の家に伝わったとされる。献皇后と楊素の妻鄭氏が病み「猫鬼の祟り」と診断されると、陀が後の異母弟で妻が楊素の異母妹であることから疑いがかかった。兄の左監門郎将穆や上自身の遠回しな問いにも陀は否定を続け、帝は不快に思い遂州刺史に左遷。陀が怨言を漏らしたため、高熲・蘇威・皇甫孝緒・楊遠らが取り調べた。
- 婢の徐阿尼が「陀の母の実家から伝わり、子(鼠)の日に祀った」と自白。陀の指示で猫鬼を楊素の家へ、のち皇后の宮中へ向けたとする経緯が語られ、香粥を用いた呪術の様子まで詳述された。奇章公牛弘が「妖は人によって興る、その人を殺せば絶える」と述べ、帝は陀夫妻に死を賜おうとしたが、弟の司勲侍中整が哀訴し陀は死を免れ除名、妻の楊氏は尼とされた。以前に猫鬼で母を殺されたと訴えた者を妄言として退けていたが、この事件を機に猫鬼を用いた家が誅された。陀はまもなく卒した。
- 煬帝即位後、舅として礼葬が許され正義大夫、のち銀青光禄大夫が追贈された。二子は延福・延寿。
- 弟の整は幽州刺史、大業初年に金紫光禄大夫・平郷侯が追贈された。