北史卷六十 列傳第四十八 侯莫陳崇

代の武川の人、字は尚樂。賀拔岳・周文帝に従い各地を転戦し西魏の八柱國の一人に列せられた将帥。梁國公・太保に至ったが、晋公護の専権に不吉な予言を漏らしたことが露見し自尽を強いられた。

年表(8件)

生涯

  • 字は尚樂、代の武川の人である。その先祖は魏の別部で庫斛真水に居住していた。祖父の元は良家の子として武川を鎮め、そのまま定住した。父の興は殿中將軍・羽林監、後に崇の功勲により柱國・太保・清河郡公を追贈された。
  • 崇は若くして驍勇で騎射に長け、謹厳寡黙であった。十五歳で賀拔嶽に従い爾硃榮とともに葛榮を討伐した。後に岳に従い関中に入り赤水蜀を破った。また岳に従い力戦し万俟醜奴を破った。崇は軽騎で敗残兵を追撃し涇州長坑でこれに追いついた。賊がまだ陣を立てぬうちに崇は単騎で敵中に入り馬上で醜奴を生け捕り、大いにこれを破った。臨涇縣侯に封じられた。岳が侯莫陳悅に殺されると崇は諸将とともに周文帝を推戴した。文帝が軍に到着した時、原州刺史の史歸はなお悅を守っていた。周文は崇に襲撃させ、直ちに城下に至り城門を占拠した。李遠兄弟が城内にいて崇の到来をあらかじめ知っており、内外呼応し伏兵が一斉に起こって歸を捕らえ斬った。崇に原州事を行わせ悅の平定にも従い、別に廣武縣伯に封じられた。累進して儀同三司となり彭城郡公に改封された。竇泰を捕らえ弘農を復し沙苑で戦い、河橋の戦いにも従い、さらに稽胡を討平し、しばしば戦功を立て柱國大將軍に進位した。六官の制が建てられると大司空を拝した。周孝閔帝の即位後、梁國公に進封され太保を加えられた。大宗伯・大司徒を歴任した。
  • 保定三年、武帝の原州行幸に従った。時に帝が夜に京師に還ったことを密かに怪しんだ崇は、親しい者の常升に「私はこの頃、卜筮する者が『晋公(護)は今年不利』と言うのを聞いた、車駕が急に夜に還るとは、晋公が死んだのだろう」と語った。これが広く伝わり、これを告発する者があった。帝は諸公卿を大德殿に集め崇を責め、崇は恐懼して罪を謝した。その夜、護は使者を崇の邸に遣わし兵を伴って自殺を強いた。葬礼は通常通り行われ、諡を躁とした。護誅殺の後、諡は莊閔と改められた。
  • 子の芮が嗣ぎ柱國に位した。武帝の東征に従い衆を率いて太行道を守り、并州平定の後、上柱國を授かった。さらに鄴平定に従い大司馬を拝した。隋の大業初年、譴責により嶺南に流配された。芮の弟が穎。

崇子 穎

  • 穎は字を遵道といい、若くして器量があり風采明敏で時人に推された。魏の大統末年、父の軍功により廣平侯を賜り、累進して開府儀同三司となった。周武帝の時、滕王逌に従い龍泉・文城の叛胡を撃った。穎は柱國豆盧勣と分進し、穎の孤軍は五百里余を進み三柵を破った。これより先、稽胡の叛乱で辺境の民が略取され奴婢とされることがあり、この時、良民を匿った胡人は誅すとの詔が下り妻子は籍没されることとなった。ある人が胡の村に匿われている者について告げると、勣は誅そうとしたが、穎は「将は外にあれば君命に従わぬこともある。諸胡はすべてが反乱に加わったわけではなく、脅されて乱に加わったに過ぎない者もいる。今、慰撫すれば戦わずして定まるだろう、もし今すぐ誅すれば、かえって驚き恐れさせ難儀を招くだろう。渠帥を召してこの隠匿の件を渡して自ら申告させれば、胡はみな安んじられるだろう」と言った。勣はこれに従い、諸胡は争って降附し北土は安んじた。司武に遷り振威中大夫を加えられた。
  • 隋文帝の受禪後、上開府を加えられ升平郡公に進爵した。陳平定の役では行軍總管として秦王俊に従い魯山道に出、行軍總管の段文振とともに江を渡り帰附した者を安集した。再遷して瀛州刺史となり善政を敷いた。後に秦王俊との交通の罪で免官されたが、送別する百姓はみな涙を流し碑を立てて穎の清廉な徳を頌えた。後に邢州刺史を拝した。仁壽年間、吏部尚書の牛弘が節を持して山東を巡撫した際、穎を第一とし上は優詔をもって褒揚した。当時、朝廷は嶺南の刺史・県令に貪欲卑劣な者が多く蛮夷が怨み叛くことが多いとして清廉な吏を選んだ。ここで穎を朝廷に召した。上は面談し平生を語らって歓笑し、その日のうちに大將軍に進位させ桂州總管・十七州諸軍事を拝した。官に至ると大いに恩信を崇め人々や夷は喜んで服した。
  • 煬帝の即位後、穎の兄の梁國公芮が罪により辺に流されたが、朝廷は穎が動揺せぬよう京師に召還した。後に恆山太守を拝した。その年、嶺南・閩越の多くが服属しない中、帝は穎が桂州で善政を敷いたことから南方に信頼されていると見て南海太守を拝した。任地で卒し諡を定とした。子の虔會が最もよく知られる。

崇兄 順

  • 崇の兄の順は若くして豪俠で志があった。初め爾硃榮に仕え統軍となった。普泰元年、木縣子(欠字あり)に封じられた。後に魏孝武帝に従い関中に入った。順は周文帝と同郷であり以前から親しく、しかも崇が先に関中にいたため周文は順に会って大いに喜び、彭城郡公に進爵した。梁GC定が河州を包囲した際、順を大都督としこれを趙貴とともに討破し河州事を行った。
  • 大統四年、魏文帝が東討する際、順は太尉王盟・僕射周惠達らとともに長安に留まり鎮めた。時に趙青雀が反乱を起こし、盟と惠達は魏太子を奉じて渭北に出た。順は渭橋で賊と戦い頻繁にこれを破った。魏文帝は還ると順の手を握り「渭橋の戦いで卿には殊勲がある」と言い、自らの金鏤玉梁帶を解いて賜った。南岐州の氐苻安壽が部落一千家を率いて款附した。時に順の弟の崇も彭城郡公に封じられたため、順は河間郡公に改封された。六年、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられ西夏州事を行い平原郡公に改封された。周孝閔帝の即位後、少師を拝し柱國に進位したが、その年に薨じた。
  • 崇の弟の瓊は荊州總管・上柱國に位し修武郡公に封じられた。瓊の弟の凱は軍功により下蔡縣男の爵を賜った。崇は平原州の功により靈武縣侯の爵を賜ったが、詔によりこれを凱に転授させた。孝閔帝の即位後、開府儀同三司に進位し公に進爵した。天和年間、司會中大夫となった。建德二年、齊への聘使の主となった。