北史卷五十五 列傳第四十三 馮子琮
馮子琮(字子琮、長樂信都の人、北燕主馮弘の後裔)。北齊の外戚・重臣で、太子輔導や礼制の議論に携わったが、和士開との権力争いから琅邪王儼を擁立する陰謀に加担し、発覚後に絞殺された。子の馮慈明は隋代に李密の反乱で節義を貫き殺された。
出自と昇進
- 馮子琮、字は子琮。長樂信都の人、北燕主馮弘の後裔。祖父嗣興は相州刺史、父靈紹は尚書郎・太中大夫。馮子琮貴顕となり開府儀同三司を追贈された。
- 聡敏で外祖父滎陽鄭伯猷に評価され、滎陽縣子を襲爵、齊の天保初年に長安縣男と改められた。皇建初年、尚書駕部郎中・攝庫部。孝昭に簿籍を試問され諳誦してみせた。梁の丞相王琳の帰国の際は形勢視察を命じられ厚遇された。妻は胡皇后の妹で、胡長粲と共に太子輔導を詔された。のち太子中庶子に転じた。
武成期・後主初期
- 天統元年、武成が禅位した後主に「至尊の側には正しい人物が必要、卿の心が正直だから後事を任す」と語り委ねられた。散騎常侍・門下事奏に累進、幷省祠部尚書も兼ねた。胡長粲との不和を武成に「唇亡歯寒」と諫められた。武成が晉陽の旧殿に居り少帝の別所がなかった際、大明宮の造営を監督させたが規模の質素さを問われ「至尊は幼くして大業を継ぐ、質素を示すべき」と答え称賛された。五礼の議定でも趙郡王叡と対立し譲らず、識者に軽んじられた。
- 武成崩御の際、和士開が三日間喪を秘した理由を問うと、士開は高歡・文襄の先例を引き諸公の異心を懸念したと答えた。馮子琮は士開が趙郡王叡・領軍婁定遠を忌んでいることを知り、「先帝の子であり今上も先帝の伝位、君臣の恩は皆同じ、これ以上の変更なきよう」と説き、喪の遅延がかえって流言を招くと諫めた。
専横と最期
- 発喪後、元文遙は馮子琮が太后の摂政を助長することを恐れ趙王叡・和士開に働きかけて鄭州刺史に出させた。その後滄州別駕に転じ寧都縣伯に封ぜられ、太后が齊安王の妃に馮子琮の長女を納れたことで侍中・吏部尚書に召還された。妻の放縦により賄賂が公然と行われ、守宰の任用も金銭次第となったが馮子琮はこれを禁じなかった。邸宅を昼夜問わず拡張し続けた。斛律光が玉璧を越えて龍門に至った際、北周との交渉の使者として乗傳し韋孝寛と直接交渉、龍門など五城の内附を成功させ、後主から昌黎郡公を封ぜられた。尚書右僕射・侍中を歴任し選挙も掌った。
- 和士開との関係は複雑で、士開の弟士休の婚姻を取り仕切るなど密着したが、内外の除授が士開に集中することへの不満から間隙が生じた。陸媼と太后が結んだ姉妹の契り、和士開の太后との醜聞に乗じ、馮子琮は陸媼と士開を密殺して琅邪王儼を擁立しようと図り、儼に告げて士開を矯詔で殺させた。しかし儼が捕らえられると馮子琮の教唆が露見し、太后の怒りを買って右衛大將軍侯呂芬に絞殺された。遺体は庫車に積まれて自宅に運ばれ、子らは賜り物と誤解して喜んだところ遺体を見て泣き崩れたという。
- 見識はあったが権勢が高まると初心を忘れ、非才の者を引き立て、婚姻を利用して門閥を築いた。頓丘の李克、范陽の盧思道、隴西の李胤伯・李子希、滎陽の鄭庭堅らは皆その娘婿で、いずれも超抜された。祖珽との旧怨から後にこの縁故人事が暴露され諸子は除名されたが、太后の口添えで再び登用された。五子あり、慈明が最も知られる。
馮慈明
- 字は無佚。齊で中書舎人、隋の開皇中、内史舎人を兼ねた。大業中、尚書兵部郎から朝請大夫に進み、大業十三年、江都郡丞事を摂した。
- 李密の東都侵攻に対し追討軍を率いたが密の部将崔樞に捕らえられた。李密は座を共にして挙兵の意義を説いたが、馮慈明は「直道をもって人に仕えるのみ、死あるのみで不義の言には応じない」と答えた。李密は厚遇して味方に引き込もうとしたが、馮慈明は密かに江都へ表を送り東都留守に賊の情勢を報告した。李密はこれを知りつつ義として釈放したが、営門で賊将翟讓に責められると「天子が我を遣わしたのはお前らを討つためだ、賊党に捕らわれてなお命乞いをするものか、殺すなら殺せ」と言い放ち、乱刀の下に斬られた。梁郡通守楊汪が上奏し、煬帝は嘆惜して銀青光禄大夫を追贈、二子怦・惇を尚書承務郎とした。王世充が越王侗を擁立した際、柱国・戶部尚書・黎郡公・諡壯武を重ねて追贈した。
- 長子の忱は東都にあり、王世充が李密を破ると軍中にあった忱は奴僕に父の柩を東都まで運ばせながら自らは同行せず、まもなく盛大な婚礼を挙げて世の非難を浴びた。