北史卷五十五 列傳第四十三 赫連子悅
赫連子悅
- 字は士欣。僭夏の赫連勃勃の後裔。高歡挙兵時、済州別駕として刺史侯景に高歡への合流を勧めた。のち林慮太守。文襄が晉陽へ赴く途上、郡境の不便を問われ「臨水・武安は郡から遠く山嶺重畳、魏郡に属させれば近い」と答え、文襄は「君は民の便を知るが行政上の損失は考えぬのか」と笑ったが、子悅は「民の疾苦こそが言うべきこと、私利で公心を損なうつもりはない」と答え、文襄はこれを是として実施させた。
- 天保中、揚州刺史。城門の開閉時刻が農作業を妨げていたのを是正し民に喜ばれた。鄭州刺史として天下随一の政績を上げ、都官尚書に召された。鄭州の馬子韶・崔孝政ら八百余人が徳を頌える碑の建立を願い出て許された。開府に進み北豫州事を兼ね吏部尚書も兼ねたが、清廉勤勉のみで学識も風儀も乏しく、人物評価には不向きで選挙の要職に就くと物議を醸した。そのため太常卿・侍中に転じ、北周への使者として没した。子の仲章は中書舍人となった。