北史卷五十五 列傳第四十三 趙彥深

趙彥深(本名趙隱、自ら南陽宛の人と称した)。幼くして貧窮しながら書写の才で司馬子如・高歓に見出され、文襄・文宣・孝昭・武成・後主の五代にわたり機密を掌った北齊随一の宰相。温柔謹慎な人柄で終始善終した数少ない齊朝の宰相として知られる。

年表(3件)

出自と司馬子如への仕官

  • 趙隱、字は彥深。自ら南陽宛の人と称し、漢の太傅趙喜の後裔という。高祖父難は齊州清河太守として善政を敷き、清河が後に平原と改称されたためその子孫は平原の人と称した。趙隱は齊の廟諱を避けて字で通した。父の奉伯は魏で中書舍人・洛陽県令。趙彥深貴顕となり司空を追贈された。
  • 幼くして孤児となり貧しく、母に孝を尽くした。十歳で司徒崔光を訪ねた際、崔光は賓客に「古人は眸子を観て人を知るという、この子は必ず遠く至る」と評した。聡敏で書計に長け、交遊を好まず雅論に服された。毎朝、人知れず自ら門前を掃く習慣を欠かさなかった。
  • 尚書令司馬子如の賤客として写書に従事、誤りのなさを気に入られ観省舍に招かれた。靴に氈もなく衣冠もぼろぼろだったのを子如が支給し、書令史から正令史に昇進。高歡が晉陽で書記係を求めた際、司馬子如が趙彥深を推薦し、のち子如の開府参軍から水部郎に超抜された。文襄が尚書令として選挙を粛正した際、地位が低いことを理由に滄州別駕に出されかけたが辞退、司馬子如の言により大丞相功曹参軍に召し返され機密を専管した。文翰は多く彼の手から出て機敏と評された。高歡は「もし天が寿命を与えれば必ず大成する」と語り、司徒孫騰にも「彥深は小心恭慎、古今に絶倫」と評した。

文襄・文宣期の重用

  • 高歡崩御の際、喪を秘した文襄が河南巡撫に出る間、後事を趙彥深に託し「母弟のように頼む」と涙して語った。内外の安定は趙彥深の力によるものだった。発喪後は郡県の簿を選抜の基準に改め安国縣伯に封ぜられた。潁川攻めでは水攻めで陥落寸前の城から王思政を単身説得して降伏させ、文襄を喜ばせた。文襄が事前に見た豕を射止める夢を、後で趙彥深が実際に王思政を捕らえたことに重ねて「夢が的中した」と語り、思政の佩刀を趙彥深に授けた逸話も残る。
  • 文宣期にも機密を典り侯に進み、秘書監に累進。忠謹さから郊廟の際は太僕を兼ね陪乗を務めた。大司農に転じ、帝の巡幸時には太子輔佐として後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として恩信の政を行い、民は「趙行台頓」と呼んで慕った。侍中に召還され機密を掌り続けた。
  • 河清元年、安樂公に進み尚書左僕射・齊州大中正・監国史・尚書令・宜陽王を歴任、武平二年司空。祖珽の讒言で西兗州刺史に出されたが四年、司空に復し司徒に転じた。母の喪に服し、まもなく本官に復した。武平七年六月、急病で薨去、享年七十。

人物評と家族

  • 数代に仕えて機密に参与し続けたが、温柔謹慎で喜怒を色に出さなかった。皇建以来礼遇が厚く、御榻に上るほどの待遇を受け、常に官号で呼ばれ諱を呼ばれなかった。選挙にあたっては行いを第一とし軽薄な者を用いなかった。孝昭の即位を群臣が密かに勧める中、趙彥深だけは黙していたが、王晞を通じて「衆心が帰するのになぜ彥深は語らぬのか」と問われるとやむなく即位を進言した。それほど重んじられた人物だった。常に謙遜し出処進退を繰り返しても再び登用された。
  • 母の傅氏は操を守り、趙彥深が三歳の時に寡婦となり再嫁を勧められても死を誓って拒んだ。五歳の趙彥深に「家貧しく子幼くしてどう生きるか」と問われると「天が哀れめば大きくなって必ず報いる」と答え、母を感涙させた。太常卿拝命の際も朝服のまま先に母に謁見し、幼少の孤露の身が母の訓育で今日に至ったと跪いて陳べ、母子で涙した。母は後に宜陽国太妃となった。
  • 七子あり、仲将が最も知られる。父の風格を受け継ぎ、妻子にも怠らず終日厳粛だった。学問に通じ草隷を能くしたが、弟への手紙にも楷書で書き「草書は他人には軽んじられる恐れがあり、家族間でも誤解を招くので隷筆にすべき」と語った。趙彥深は万年縣子の爵を仲将に譲り、給事黃門侍郎・散騎常侍に至った。隋の開皇中、吏部郎から安州刺史で没した。
  • 齊朝の宰相で始めから終わりまで善終したのは趙彥深ただ一人だった。ただし子の叔堅を中書侍郎に推挙したことで物議を招いた。当時馮子琮の子慈明、祖珽の子君信も相次いで中書に居たため「馮・祖及び趙、我が鳳池を穢す」と評されたが、叔堅の才は最も劣っていたという。