北史卷五十五 列傳第四十三 元文遙

出自と才覚

  • 元文遙、字は德遠。河南洛陽の人、魏の昭成皇帝の六世孫、五世祖は常山王遵。父の唏は孝行で知られ父の死後は墓の側に廬を結んで没した。元文遙貴顕となり特進・開府儀同三司・中書監・諡孝を追贈された。
  • 幼くして聡慧で早熟、濟陰王暉業に「王佐の才あり」と評された。暉業の大宴に《何遜集》を持参した客が現れた際、邢邵の試問に文遙は一読でこれを暗誦し、暉業は「我が家の千里の駒」と称えた。員外散騎侍郎として出仕、父の喪に服したのち太尉東閣祭酒となったが、天下の乱を理由に官を辞し林慮山に隠れて母に仕えた。

中書での活躍と宗族優遇

  • 武定中、文襄に大將軍府功曹として召された。齊の受禅にあたり登壇の場で中書舍人に任じられ文武の号令を伝えた。楊遵彥は「穣侯の印を解く力量の者は必ずこの人だ」と評した。理由不明のまま長く幽閉された時期もあったが、文宣は自ら獄に赴いて謝罪し金帯・御服を賜って尚書祠部郎中に起用した。孝昭攝政期に大丞相府功曹参軍典機密、即位後は中書侍郎・永樂縣伯となり軍国大事に参与。孝昭崩御に際しては平秦王歸彥・趙郡王睿らと共に武成擁立の顧命を受けた。武成即位後は給事黃門侍郎・散騎常侍・侍中・中書監を歴任し、天統二年、高氏の姓を賜り宗正に籍を移し子弟も廟祀に列した。尚書左僕射・寧都郡公に進み侍中も兼ねた。
  • 三代に仕え政務に通じ、宣勅の際は声高らかに滞りなく発言した。廝濫(低い出自の者)が多く用いられていた齊の県令制度を改め、貴族子弟を密かに選出して任用する制度改革を実現、神武門で趙郡王叡に宣旨を唱えさせ士人が県令に就く前例を作った。趙彥深・和士開と並び重用されたが、清貞な趙彥深にも貪淫な和士開にも与しない中庸の姿勢を保った。洛陽から鄴へ移った当初、家貧しく田十余頃のみだったが、他人に強奪された土地の後日談として、その人物が困窮しているのを見て土地を返還させず自ら譲るという美談も伝わる。

後主期

  • 後主の代、趙郡王叡・婁定遠らが和士開追放を謀った際、元文遙もこれに参画した。叡が殺されると元文遙は西兗州刺史に出された。和士開に別れの挨拶をした際、士開は「良い地位に元家の子を任じるとは朝廷に背く」と口にしたが、すぐ後悔して慰めた。士開はさらに元文遙の子行恭を尚書郎に用いて安心させようとした。士開の死後、東徐州刺史から召還されたが用いられず没した。
  • 子の行恭は容姿優れ父の風格と俊才を備え、中書舍人・待詔文林館。齊滅亡後、陽休之ら十八人と共に北周に入り司勳下大夫に累進、隋の開皇中、尚書郎から瓜州に流罪となり没した。若い頃驕慢だったが父は盧思道と交流させて矯正させた。行恭の弟行如も聡慧で武平末年、著作佐郎となった。