平鑒
- 字は明達。燕郡薊の人。祖父延は魏の安平太守、父勝は安州刺史。
- 若くして聡敏、徐遵明に学び、弘農の楊文懿に《詩》《禮》を学んで大義に通じたが章句には拘らず、豪俠の気風があった。孝昌末年、天下の乱を見て洛陽に赴き慕容儼と客騎馬を業とし弓矢も習った。器用で夜に画を描いて衣食を賄った。爾朱榮のもとで軍功を重ね襄州刺史に累進。高歡の信都挙兵の際、州を棄てて帰順し、そのまま本官を授けられた。文襄輔政期には西平縣伯に封ぜられ懐州刺史に遷った。
- 州の西の故軹関道に城を築き西魏に備える策を献じたが、築城直後で兵糧・武具が揃わず水も乏しかった。城内の大井に向かって祈祷すると翌朝井泉が湧き出し、平鑒はこれを敵に示して士気を高めたという逸話がある。西魏の楊摽を破り、開府儀同三司に進んだ。揚州刺史に累進した際、妻の出産の喜びに酔って囚人を境内で恩赦したが誤って関中の間者二人まで釈放し、覚めてから自ら上表して罪を認めた。文宣は特にその罪を赦し犢百頭・羊二百口・酒百石を賜って楽を奏させた。河清二年、懐州刺史に再任。和士開が平鑒の愛妾阿劉を所望した際、平鑒はこれを送り「愛妾を失うのは死ぬのと同じだが、身の保身のためにはやむを得ない」と語ったという。都官尚書で没し司空・諡文を追贈された。
- 子の子敬は軽薄無頼で悪事を重ね、隋の開皇中、晉州行参軍として并州総管の秦王に殺された。